――しまった、と思った時にはもう遅かった。
鼻先を枯葉色の風が掠め、その正体に気付いた瞬間カチリと音を立てて手首に嫌な冷たさがまとわりついてきて次元は思わず舌打ちする。
「はっはっはァ~! 次元大介、召し捕ったりぃー!」
ムカつく高笑いを聞きながら、次元は帽子の鍔を下げため息をついた。
「ルパンはどこにいるんだ、次元」
「何回聞くんだよ、俺ァ知らねぇって言ってんだろ!? ……今は休暇中で、俺はバカンス楽しんでただけなんだよ、ヴァ・カ・ン・ス!」
銭形に捕まってから三日目、幾度となく繰り返される同じ問いに次元の苛立ちはとっくに沸点を超えていた。怒鳴る次元に顔色一つ変えず、銭形はじっとりと目の前の男を睨み付ける。
「ばかんす、だぁ? ここはハワイやニースじゃねぇんだぞ、もちっとまともな嘘をつけ」
銭形がそう言うのも無理はない、ここはアリゾナの砂漠の真ん中にある小さな町だった。交通手段といえば乗合馬車くらいしかないこの片田舎で、銭形と次元は空港目指して安宿を渡り歩いていたのだ。じりじりと焦げ付くような日差しの中、スーツ姿の二人の男が手錠で繋がったまま歩いている様子は全く奇異なものだったが、残念ながらそれを見るものはトカゲくらいしかいなかった。
「まぁいい、明日には空港に着くだろうからな。日本に帰ったらたっぷり締め上げてやる」
次元は黙って肩をすくめ、スキットルの水を呷った。喉を滑り落ちていくのは湯と言った方が適切じゃないのかというほど温い液体だったが、それでも疲労し切った体には沁みた。
ふぅ、と一息ついた次元は今夜の宿となる部屋を見回した。何ということはない、安モーテルの一室だ。だが今夜はまだましな方だった。
ベッドにかけられているシーツは古そうだがきちんと洗ってあるし、硬くて座り心地は最悪だがソファーもある。何より何より、部屋にシャワーがついてるんだぜ! そわそわと浴室のドアに目線を送る次元に気付き銭形はフンと鼻を鳴らした。
「シャワー使いたかったら勝手に使え」
「え、いいのか? 銭さんあんたは……」
「俺はまだ仕事があるから後でいい。……おい、逃げようなんて思うなよ」
「へーへー。俺は無駄な努力はしない主義なんでね」
もちろん最初から逃げることを「無駄な努力」だと思っていたわけではない。
一晩目に次元は逃げ出そうと試みた。寝心地の悪いベッドの上でまんじりともせず時間をやり過ごし、床に毛布一枚で転がる銭形が高イビキをかき始めたのを確かめて音を立てないよう細心の注意を払って布団から出た。ところが足を床に下した瞬間に銭形はバネで弾かれたように飛び起きて次元の肩を掴んだ。
「逃げようってんじゃないだろうな」
その瞬発力と低い唸り声にギョッとした次元は冷や汗をかきながら「いや、ションベンに行きたくて……」などと言い訳する羽目になったのだった。
髪の奥にまで入り込んだ砂をシャワーで洗い流し、次元は深く息をついた。乾燥して埃っぽい中をずっとうろうろしていたので熱い湯が体を伝うのは気持ちがいい。カランを締め湯を止めると次元はちびた石鹸を手に取った。
「ルパンのヤツ、怒ってるだろーな……」
情けない気分になってつぶやく。銭形に言ったバカンスというのは当然嘘っぱちで、次の仕事の下準備のために単身こんなところまで来ていた。まさか銭形が、ルパンと行動を共にしていない自分の前に現れるとは思ってもいなかった。
泡立たない石鹸を適当に体に擦り付けなおざりに洗うと沈んだ気分を振り払うように頭を振り、カランをひねる。シャワーから勢いよくほとばしる湯に顔を向け、しばらくすると。
「う、わっ……なんだこりゃ」
次元はシャワーの飛沫から逃れるように飛びのいた。心地よい湯を提供していたはずのシャワーの温度がいきなり下がり、冷水を次元に浴びせかけはじめたのだ。
「おいおい、マジかよ」
ぼやきながら次元はカランを締めたり開けたりしたが出てくる水の温度が再び上がる気配はなかった。次元はハタとここが安宿だということを思い出す。最近は宿といえばルパンたちと高級ホテルの部類に属するところばかり使っていたから忘れていた――こういう宿で湯がまともに出ないのは当然と言えば当然の節理だったのだ。
次元は舌打ちしながらごわごわするタオルで体を拭き、服を軽く羽織ると浴室を出た。
部屋に戻ると銭形はコートも脱がないままソファーに腰かけて手帳に何か書きつけていた。髪を拭きながら近づいてくる次元を見て立ち上がる。ソファーの座面を軽く手で払うと銭形はコートの襟に手をかけ内ポケットから手錠を取り出した。
「悪いが俺がシャワーを使ってる間はこれをつけていてもらうぞ」
狭い部屋の中で、銭形とすれ違うように立ち位置を変えた次元はぼすんとソファーに体を横たえた。
「そりゃかまわねぇけどな、まともに湯が出ないぞここのシャワー」
屈みこんで次元の手首とソファーの脚を手錠で繋ぐ銭形は別段驚いた風を見せなかった。
「よくあることだ、慣れとる」
手錠がしっかりかかっているのを確かめると銭形は立ち上がる。
「体中埃っぽくてかなわんからな、流せるだけありがてぇってもんだ」
言い捨てると浴室に消えていく銭形を見送って次元は目を閉じた。しばらくして響く「冷てっ!」「ぅぉあちっ!?」というだみ声の悲鳴に次元は思わず忍び笑いを漏らす。だがあることに思い当たって真顔になった。
この手の宿に泊まり慣れている銭形は最初の内ならまともに湯が出ることがあると理解っていたのではないか? なのにあえて自分を後回しにした。仕事があると言ったのも次元に余計な気を使わせないためだろう。こんな砂漠の真ん中で急を要する仕事もあるまい。寝床に関してだってそうだ――次元は再び最初の夜に思いを馳せた。
一つしかないベッドを前に銭形と次元は互いに自分が床に寝ると言い張り、長い言い争いの末じゃんけんで勝った方がベッドを使い、次の日からは交代でということで決着をつけた。その時はなんて頑固で意固地で融通の利かないおっさんなんだ、と銭形に対して腹が立っていたはずなのに。ルパンたちと居る時に同じような状況になれば自分がシャワー後回しで床に寝ることが常だった次元は、知らず銭形と行動を共にすることに居心地の良さを感じ始めている自分に気づき顔を顰めた。
「……さっきだってなぁ」
先ほど銭形がソファーから立ったときに座面を払ったことを思い出す。汚れたコートのまま座っていた事を気遣っての行動だろう。実際には風呂上りにもそれまでと同じ服を着ざるを得ないこの状況では意味をなさないことなのだが――、それらは全くさりげない動作で、銭形が何の計算もなく自然ととった行動のように感じられた。もしかしたら銭形自身、そんなことをしたという意識すらないかもしれないな、と次元は思った。
「まぁ基本的にはイイ奴なんだよな、とっつあんは」
声に出すとなんだか気恥ずかしくなって次元は頭に載せた帽子をぐっと鼻先まで引き下ろした。
うとうとしていたらしい。
カチャカチャと手元で音がして次元はうっすらと目を開けた。手錠を外された手は軽く痺れていて上げるのも面倒だ。だらんと手を投げ出したまま、次元は帽子で作られた闇の中で再び目を閉じようとした。
「おい、寝るんならベッドへ行け」
「……もうここでいいよ」
「そういうわけにはいかん、今日はお前がベッドの日だろうが」
律儀に面倒くせぇ奴だな、と帽子をずらして銭形を見た次元はギャッと悲鳴を上げた。
「お、お、おま、お前さん、なんて格好をしてんだよ……っ」
慌てふためいた様子の次元に銭形はきょとんとした顔をした。彼は上半身に何も身に着けないまま、浴室から出てきたのであった。濡れた髪から落ちた滴は頬から首筋に伝い、鎖骨をなぞってゆっくりと滑り落ちていく。それを目で追っていた次元は、滴が銭形の剥き出しの胸元にまで到達したことに気付くとハッとして手で目を覆い、顔をそむけた。男の裸なんて自分やルパンや五エ門で見慣れているはずなのだが、普段スーツの上にコートまで着込んで隠されている銭形の体が露わになっているのは何か見てはいけないもののような気がして次元は激しく動揺した。
「せっかくさっぱりしたのにすぐにこの服を着るのはなんか嫌でな」
そんな次元の動揺に気付く由もなく、銭形はシャツを摘み上げると部屋のドアを開け廊下に向かってシャツをバサバサと払った。次元は指の隙間からその様子を眺め、服に隠れていた部分は思ったより白いんだな、などとぼんやり思っていた。
振り返った銭形は手で顔を隠している次元を見て呆れかえる。
「お前なぁ……、気持ち悪い反応はよせ。生娘じゃあるまいし……」
その言葉に次元が手を外して銭形を見上げると、彼は埃を払ったシャツに腕を通しているところだった。なんだか名残惜しいような気持になり、次元は慌てて首を振る。
「年の割にゃいい体してんじゃねぇか、とっつあん」
気を取り直して軽口を叩けば、お前らを追い続ける限り鍛錬は欠かせんのだ、と真面目くさった答えが返ってきた。
「それより次元、さっさとベッドに行ってくれ。俺も横になりたいんだ」
「銭さんがベッド使えよ。どうせ明日にゃ空港だ。それに俺はこのソファーが気に入ったんだよ」
明らかに嘘だったが、わざとらしくふんぞり返る次元に銭形もそれ以上は何も言わずベッドに向かった。
「暇だなァ」
ソファーに寝ころんだまま煙草に火をつけた次元はつぶやいた。ベッドに寝そべり手帳を繰る銭形を眺め、そちらに煙を吹きかける。最初は無視しようとした銭形だったが、次元からの視線を感じて彼の方に向き直った。
「暇だってんなら訊問してやろうじゃねぇか。おい次元、いい加減ルパンの居場所を吐いたらどうだ?」
「またかよ……」
次元は口角を下げた。
――この男はいつもそうだ。ルパン・ルパン・ルパン……俺だって一応名の通った殺し屋だぜ? それを捕まえたというのに、コイツの意識は俺を通り越してはるか遠くの男だけを見ている。
例えばルパン一人が先に捕まったとしたら――。この男はルパンに自分の居場所を尋ねるだろうか、こんなに熱を持った瞳で。
問うと銭形は不思議そうな顔をした。
「だってお前らルパンを助けに来るだろうが」
それもそうかと一瞬毒気を抜かれかけた次元だったが、じゃぁ今だってしつこく俺にルパンの居場所を聞かなくてもあいつが俺を助けに来るとは考えないのか、と思ってイライラする。ぎ、と歯軋りした途端、唐突にこの苛立ちの正体に気付いて次元はどきりとした。
俺は、この男に、ルパンの相棒としてではなく、一人の男・次元大介として、認めてほしかったのだ。
のんきな顔でこちらを見る銭形に猛烈な腹立ちを覚え、次元は彼らしからぬサディスティックな気分に見舞われた。
――アリゾナの熱さが俺をおかしくしたんだ。と後に次元は語ったという。
しばらくの沈黙の後、次元はゆっくりと口を開いた。
「銭さん、場合によっちゃルパンの居場所を教えてやってもいいぜ」
「なに?」
先ほどとは打って変わって緊張した面持ちで銭形は身を乗り出した。
「取引といこうじゃねえか。俺の要求を呑めばルパンの居場所を教えてやらんこともない」
次元はルパンに対するうしろめたさを隅に追いやり、にやりと笑った。
「要求? なんだ、酒か?」
銭形は今にも自分のカバンから財布を取り出さんとする勢いで食いついてきた。次元はそれを制してごくりと生唾を飲み込むと意を決したように喉の奥から言葉を絞り出す。
「俺の要求は、アンタが俺と寝ることだ」
銭形の動きが止まる。目を丸くしてぎこちなく次元を見ると、硬い表情をした次元の視線にかち合う。それを見て銭形は眉を下げてふにゃりとした笑みを浮かべた。
「何だお前、意外と寂しがりだな」
言うと布団を持ち上げ、傍らのスペースをポンポンと叩き次元を手招きする。てっきり拒まれると思っていた次元は自分の言いだしたことにも拘らず、それをすんなり受け入れた銭形にギョッとした。
「で? 子守唄がいいのか? それとも昔話か?」
ニヤニヤと笑う銭形に次元は衝動的に立ち上がった。
「ちげーよ! ……っその、父性愛と憐憫が入り混じったムカつく笑いをやめろ!!」
掴みかかると銭形のシャツのボタンが一つはじけ飛び、日に焼けた首筋とシャツのラインの下からきっちり白い鎖骨を視界に入れた次元は軽い眩暈を感じた。俺はいったい何をやっているんだ。
「何が違うってんだ、一緒に寝りゃあいいんだろ」
真顔になった銭形がやんわりと次元を押し返す。幾分冷めた銭形の言葉を聞いて次元の頬にさっと朱が差した。
「ガキじゃねぇんだからよっ、寝るっつったらセックスだセックス! セーッックス!!」
ヤケクソ気味に叫ぶ次元をあっけにとられて銭形は眺め、ゆっくり立ち上がるとぜいぜいと息をつく彼をなだめるように肩に手を置いた。
「落ち着け次元、はしたないぞ」
「子ども扱いするな……っ」
次元は銭形の手を乱暴に払う。既にこんなことを言い出したことを後悔していた。しょんぼりと肩を落とした次元を見て銭形は困ったように頭を掻いた。実際のところ、目の前のこの男は、冷徹無比な殺し屋という印象――銭形が彼に対して抱いていたイメージである――からかけ離れていて、銭形を戸惑わすには十分だった。
次元はというと、帽子の陰に隠した目で自分のつま先を見つめていた。くだらないことを言ってしまった、と今更ながら羞恥で顔が熱くなる。どんどんと心臓が早鐘を打つ音だけが響いて、ここから逃げ出したくてたまらなかった。
どれくらい時間が経ったのか。あるいは全然時間なんて過ぎていなかったのかもしれない。
思いもかけない力で肩を掴まれた次元はグルンと体を反転させられた。よろめいた足の下で安普請の床が軋む。尻餅をついたその先は、硬いシーツが敷かれたベッドの上で。驚いて見上げると、銭形が自らの襟に指をかけているのが解った。
「――お前と寝ればルパンの居場所を教えるんだな」
ただでさえ弱い光の裸電球の下に立つ銭形の表情は、次元からは逆光になっていてよく見えない。それでもギラリと光るその眼が、自分だけを見つめていることに次元は我知らず固唾を飲んだ。
「あ、ああ……」
応える声が掠れているのが自分でもわかって次元は目を伏せて唇を噛んだ。落ち着かない気分でシーツを手繰り寄せると、他の部分より温かいところに指先が触れ心臓が跳ね上がる。これは、さっきまで寝転んでいた、銭形の熱。握り締めるとその熱はあっという間に次元の掌で消えた。
――もっと直接感じたいんだ。アンタの熱が、消えないように。
再び顔を上げた次元の、まるで懇願するかのような面持ちを見た銭形はほんの一瞬目を丸くした後ゆっくりと次元の足の横に片膝をついた。スプリングが軋む音とともに次元の体がわずかに傾く。互いの息がかかるほどに近づいた距離に固まる次元に銭形は静かに手を伸ばした。日に焼けた武骨で長い指が、頬を掠め洗いざらしの髪に梳き入れられる。
「あ……ッ」
さり、と撫でられて思わず声を漏らした次元に銭形はにやりと笑った。髪に差し入れた手で後頭部を掴み、グイと押し退けるとそのまま空いたスペースに仰向けに体を投げ出す。
「ワシをからかうつもりだろうがそうはいかんぞ」
「な」
慌てて振り返ると頭の下で手を組んでニヤニヤとしたり顔の銭形が目に入る。いつもおちょくられる側の自分がおちょくる側に回ったことがよほど嬉しいのだろう。
「からかってるつもりはねぇんだが」
くそっ、ムカつくのに可愛いとか思っちまう自分がイヤになる……! 次元が苦々しい表情になるのを見て銭形は困ったように眉を下げた。
「……俺にゃお前を抱けねェよ」
次元はフンと鼻を鳴らすと銭形の体を膝立ちに跨いだ。
「なぁんで俺がネコなんだよ」
「あ?」
「突っ込むのは俺の方! 銭さんは突っ込まれる方!」
驚いた顔になる銭形を見て次元は勝ち誇ったように笑った。銭形はぽかんと口を開け、眉根を寄せて考え込んだ。
「あー……、うん、そうか……」
余裕げな態度を一転させブツブツと悩み始める銭形に、今が形勢逆転の時だと次元は畳み掛ける。
「何悩んでんだ、まさかバックは操を立ててます、なんて言う気じゃねぇだろうな」
なぬ、と片眉を上げた銭形の顔の横に手をつき、耳に口を寄せる。
「いつも突かれまくってんだろ? ルパンの野郎に」
気分を奮い立たせようとわざと下卑た物言いをした次元は銭形の顔を見て自分の失敗を悟る。目と口を真ん丸にあけてこちらを見る銭形の顔、いや顔だけといわず耳や首筋までも――真っ赤に染めあがっていたのだ。
この男にこんな顔をさせられるのは、たとえ今夜自分が彼を抱くことに成功したとしても、ルパンただ一人しかいない。直感的にそう思って次元は額に手を当てた。
それでも色づく首筋に劣情を抑えきれず、次元はそっとそこに唇を押し当てる。
「さぁどうする、銭さん。取引に応じるかい……?」
とびきり甘いバリトンで囁いてやると、銭形が微かに身じろぎしたのが伝わってくる。その滑らかな肌を慈しむように啄めば、遂に掠れた吐息が漏れた。
夜はまだ始まったばかりだった。