「……なぜ拙者はあの時ぐーを出してしまったのだ」
暗がりの中をその長身を屈めながら歩く五右エ門はブツブツとつぶやいていた。
結局あの後、どちらが行くか軽くもめた挙句、じゃんけんで負けた彼が天敵である銭形警部の部屋へ赴くことになったのであった。
ここは銭形が住む長屋の天井裏である。五右エ門は上半身を倒した窮屈な格好で、それでも物音ひとつ立てず軽やかにターゲットの部屋の上を目指して進んで行った。
「ここだったな」
目当ての場所につくと五右エ門はしゃがみこみ、しばらく耳を澄まして足元から物音がしないことを確かめると慎重な手つきで天井板をゆっくりとずらしていく。
じりじりと出来ていく隙間が大きくなり、難なく体を入れることが出来るくらいの空間ができると五右エ門はそこから顔を入れて薄暗い部屋の様子を窺った。
仕事が忙しく、家に戻る暇も少ない銭形は住にはあまりこだわりがないようで、四畳半一間、とか言う部屋より幾分広いという程度の質素な部屋である。
五右エ門は小さな流しとささやかな食事スペースの真上から部屋を見渡す。寝室を隔てるための引き戸は開けっ放しで、そこに敷かれた布団の端が敷居からはみ出しているのが見えた。そして、銭形の規則正しい寝息。というか鼾が聞こえる。
「ふん、これくらい造作もないことだ」
音もなく卓袱台の横に降り立った五右エ門は独り言ちた。
「しかし――」
窓から漏れ入る月明かりに部屋を透かし見、やや呆然としたつぶやきを漏らす。
汚い。
汚い、のだ。部屋が。
傍らの卓袱台の上には吸殻が山盛りになった灰皿、空になった惣菜やコンビニ弁当の容器が何食分か、軽くつぶされたビールの空き缶などが散乱している。
右手に目をやれば洗濯してあるのかしていないのか、衣服がくしゃくしゃのまま山積みになっている。
左側の壁際に置かれた書類棚を見れば、上段のガラス戸の向こうに並べられた書籍やファイル類はかろうじて整然の体を保っているが、中段以降の引き出しのいくつかは溢れる書類で閉めることもままならず、辿って視線を下せば床の上にも入りきらなかったのであろう紙類や本が雑然と積まれていた。
「泥棒にでも入られたかのような荒れっぷりだな……それに」
五右エ門はスンと鼻を鳴らす。この部屋の空気はやけに埃っぽい臭いがする。
有機ゴミがあまりないようで、さほど不快な臭いではないことは幸いだが――五右エ門は書類棚の影に置いてある掃除機に目を止めた。暗がりの中、遠目でも解るくらいに埃が積もっている。掃除をするための用具がこんなになるほど、住家に構う暇もないのであろう。そう思うとなんだか銭形が妙にいじらしく思える五右エ門であった。
「しかしこれでは目当てのものを探すのは難儀しそうだ」
五右エ門は懐からたすきを取り出すと器用に袖を括り、物音を立てないようゆっくりと動き出した。
数時間後。
五右エ門はなぜか布巾で卓袱台を拭いていた。先ほどまで散乱していたはずのゴミは跡形もなく、空になった灰皿もきれいに洗われわずかな光を反射して煌めいている。
「ふぅ」
額に浮かぶ汗を腕で拭って五右エ門は満足げな息を漏らした。
ぐるりと部屋を見回し、自身が忍び込んだ時とは打って変わって整然と整理された室内を確かめてまたも満足そうに頷く。
そこそこ几帳面な性質がある五右エ門は、見取り図を探すために雑然と散らばったものに触れてはそれを戻し、としているうちにいつの間にか整理整頓の方に熱中してしまっていた。さらに、床に膝をつけそれらの作業をしていた五右エ門は埃っぽいのが我慢ならず、雑巾がけまでしてしまったのである。
うっすらと自身の顔が映り込むまでに卓袱台を磨き上げた五右エ門は本来の目的を思い出してハッとした。
これだけ片づけても、目当てのものは見当たらない。とすると。
「肌身離さず持っておる、と言っていたな」
今頃ルパンの言葉を思い出し、膝で布団ににじり寄る。そこには、のんきな顔で高鼾をかく鬼警部の顔があった。
「……」
五右エ門はなぜかその枕元に正座をしたまま銭形の寝顔を眺めていた。気配を殺しているとはいえ、自室に侵入者がいるというのに全く起きる様子がない。
よっぽど疲れておるのだな、と五右エ門は苦笑する。と、何かに気付いたように真顔になった。
「む、これは」
慎重に上半身を傾け、銭形の顔に自分の顔を近付けてまじまじと眺める。
「睫毛に、埃が」
自らの鼾に微かに震える銭形の睫毛にほんの小さな埃がついているのを発見した五右エ門は、なぜかこれをとってやらねばならぬという強い使命感に襲われた。もはや彼の頭からは見取り図のことなど吹っ飛んでいた。
さらに顔を近付け、自分の体を支えるため銭形の顔の傍に手をつくと、枕が沈んで銭形の顔がわずかに傾いた。
「……ん、ぅ」
銭形の口からため息ともつかない声が漏れ、五右エ門はぎくりと身をすくめた。
そのまま動きを止め、緊張した面持ちで眼下の男を見つめていたが目を覚ます様子がないことに胸をなでおろす。
頭が動いたせいか、鼾は止み、すうすうと静かな寝息を立てている銭形の顔を見下ろしていた五右エ門はふと自分の鼓動が早くなっていることに気付いた。
なぜだ。別に心拍数が上がるような辛い体勢をとっているわけではない――心の底から不思議に思いながら視線をさまよわせた五右エ門は、銭形の首にくっきりと浮く胸鎖乳突筋とそれにつながる鎖骨が青白い月明りに照らされ艶めかしく浮かび上がっていることに気付いてごくりと固唾を飲んだ。
美しい、と声に出さずつぶやく。もし、そのつぶやきが声になっていたとして、誰かが聞いていれば噴飯ものの光景だった。
何しろ銭形は鬼警部の呼び名にふさわしく、三百六十度どの角度から見ても厳つい中年男なのだ。それに覆いかぶさっている五右エ門の方がよほど美しいという形容詞にはふさわしい容姿をしている。
だがしかし、その形容詞は銭形の寝顔を眺める五右エ門の、嘘偽りのない、至って真面目な感想だった。
日に焼けた滑らかな肌、黒々として凛々しい眉、太めだがはっきりとした鼻筋、心持ち厚ぼったい唇。首筋から肩口に視線を滑らせれば、寝間着越しでもその筋骨隆々とした体格が見てとれる。すべてのパーツが彼が男である、ということを主張し、それは――五右エ門が長いこと淡い憧れを抱いていた部分であった。
十三代目石川五右エ門は、殺し屋を生業としてきたれっきとした男である。
当たり前すぎることではある。が、彼はその内に秘めた激しさとは裏腹に、優男と揶揄されるほどの甘くたおやかな容姿の人間であった。
透明感のある白い肌、柳眉と称えられたことすらある美しい眉、切れ長の涼しげな眼、すっと通る鼻筋、刃物のように薄い唇。
鍛え上げた肉体はさすがに男らしいものだったが、着痩せする性質のようで着衣時には少々儚げな印象をもたらすようだ。
仕事で女の格好をさせられた時には、自分だけ変装マスクもなしで薄化粧だけ施され、その仕上がりに女性である不二子を悔しがらせたことすらある。
――だが、拙者は、れっきとした男である。
五右エ門は蘇った記憶に眉根を寄せた。今でこそ凄腕の剣士として裏社会では名を知らぬ者のいない五右エ門だったが、駆け出しの頃はこの容姿のせいで舐めた態度をとられることも少なくなかった。
もちろん次の瞬間には、相手は彼を舐めてかかったことを後悔しつつあの世に旅立つことになるのが常だったが、見た目で判断して軽んじた態度をとられることは彼の自尊心を傷つけた。
年を重ねた今は、容姿もひっくるめて自分なのだと受け入れることが出来てはいるものの――、銭形の、内面をそのまま率直に表現するかのような男くさい容姿に憧憬のようなものを持っていたことは事実である(別に銭形殿のような顔つきになりたいわけではない)。
動きを止めて物思いに耽っていた五右エ門は、窓の外から原付自転車のエンジン音が聞こえてきたために我に返った。
慌てて顔を上げれば、窓の外がほんのりと明るくなり始めている。
「しまった……!」
気忙しく再び銭形の顔を見る。とにかくこの、睫毛についたゴミを取り除いてやらねばなるまい。思い込みの激しい面がある彼は、自分がここに忍び込んだ目的が当初のものとは全く異なるものになっていることに気付くことが出来なかった。
先ほどまでの慎重さをかなぐり捨てて自分の顔を銭形の顔に接近させる。冷静に考えれば、顔など近付けなくても指を伸ばせばゴミを取ることが出来るのだが、なぜかそんな当然の判断すらできないほど彼は動転していた。
五右エ門の瞳に、銭形の濃い睫毛の先にちょこんと鎮座した小さな埃だけがズームアップして映し出されるまでに顔が近づいた時。
「んん……」
覆いかぶさる五右エ門の髪が銭形の頬や顎のあたりをくすぐっていたせいか、銭形はうるさそうに眉をしかめてわずかに顔を動かした。
!?!?!?!?
何が起こったのか解らず、五右エ門の肩が跳ね上がる。己の唇にあたる、柔らかい感触と熱。硬直する五右エ門をよそに、銭形はそれでも目を閉じたままむにゃむにゃと言葉にならない寝言のようなものを漏らした。
その寝言と連動して、自身の唇に触れる感触と熱が柔らかく動くのを感じた五右エ門は驚きに目を見開き、必死の形相で飛びのいた。
「ま、っまさか……」
五右エ門は呆然として、未だ目覚める気配のない銭形を見下ろす。銭形は五右エ門の髪が触れていた辺りをポリポリと掻くと、ふにゃりとした笑みを浮かべてまた鼾をかきだした。
その様子を見ながら、思わず自分の口元に手をやった五右エ門は、自らの指先の硬さと冷たさによって先ほどの柔らかな熱を脳裏によみがえらせる羽目になる。
「せ……拙者は、銭形殿と接吻を」
してしまったのか――!! 最後まで声に出すことが出来なかったつぶやきと共に、色素の薄い顔にさっと紅が差した。
じりじりと後退り、踵を返すと天井に向かって飛び上がる。
「御免!」
銭形には聞こえないことを承知で低く言うと、五右エ門は天井板をはめ直し、来た時には慎重に足を運んでいた天井裏を疾風のように駆け抜けていった。
ルパンが朝食のためにリビングに降りていくと、すでにソファーには五右エ門が座っていた。
「よお五右エ門、見取り図、撮ってこれたか?」
ルパンは片手をあげ、カメラのシャッターを切る手つきをして見せる。
「いや、拙者見取り図を見つけることが出来なかった」
「なぁにやってんのよ五右エ門ん~~~」
悪びれる風もなくきっぱりという五右エ門にルパンは呆れたような声を上げ、頼むよ、と小さくつぶやいた。
「仕方ないだろう、銭形殿が起きそうになったのだ」
口をとがらせてプイと横を向く五右エ門を見てルパンはふぅんと考え込む。
「とっつあんって結構眠りが深いイメージあるけどそうでもないのかな」
「かもしれんな。あやつの刑事としての勘もなかなか鋭いというわけだ」
自分自身感心してしまうほどすらすらと適当な返事が口から出てきたが、やはり一抹の後ろめたさは拭いきれずルパンを見ることはできなかった。キッチンから出てきた次元がダイニングテーブルに皿を並べながらからかうような調子で五右エ門に言葉を投げる。
「お前さんにしちゃヘマこいたな」
思わず次元をキッと睨み付けた五右エ門は、相手のにやりとした笑みに渋面を作ってそっぽを向いた。ルパンはそんなやりとりを眺めつつ何事か思案していたが、椅子に座ると次の皿を取りにキッチンに向かおうとした次元の袖を掴んだ。
「んーじゃまぁ、次は次元な」
「え……ああ、ん……そうだ、な」
相変わらず気乗りのしない返事をする次元に構わず、ルパンはポケットから小瓶を取り出すと次元に手渡した。
「なんだこれ」
「朝まですやすや快眠をお約束する魔法のお薬。結構キツいから、飲ませる時は量に注意してねン」
悪戯っぽくウインクして見せるルパンの表情の奥に、『次失敗したらお仕置き』という冷酷な気配を感じた次元は黙ってそれを受け取った。