顔の半分近くを覆う無機質なプラスチックカバーが一定のリズムで白く曇るのを眺めるともなく見ていた。呼吸器の作動音にすらかき消されそうな頼りない寝息は、それでも途切れる気配がなく暗澹とした気持ちに一条の光を差していた。
医者の話では、早ければ今日明日には目覚めるらしい。ここに担ぎ込まれた時の状態を思えば目を見張る回復ぶりと言えよう。もはや自分がこの場にとどまる意味はない――いや、最初からなかったのかもしれない。
ポケットに突っ込んだ指先が携帯電話を掠め銭形は溜息を吐いた。自分が病院に詰めていることで捜査は停滞していた。指示を仰ぐ部下からの連絡もはじめのうちこそ控えめだったが時間が経つにつれ戻ることを懇願する色を帯び始めた。俺の仕事は何だ、などと改めて考えるまでもなく向こうに戻り指揮を執るのが道理だということは痛いほど理解しているつもりだ。
それなのに、自分は何をしているのか。ここに居てもできることなどないというのに。ふと顔を上げれば窓から見える空は低く重い雲に覆われていた。時計の針はちょうど17時を指している。
さまよわせた視線の先、次元の瞼は持ち上がる気配すらなかった。
それは突然だった。SSKの追走中、一発の銃声が喧騒を裂いた。凶弾は車外へ身を乗り出していた男の胸を裂き、反動でその身体を揺り落とす。オープンカーなのが災いし、次元の身体は一瞬の内に路面に叩きつけられた。あと数秒パトカーのブレーキが遅かったらと思うと今でも肝が冷える。
発砲は許可しとらんぞ! 喉を震わす自分のがなり声も虚しい。銃弾の軌道からも警官隊内部の裏切りは明らかで、すなわちそれは自分の失態でしかなかった。
あれから三日。まんじりともせず焦燥をやり過ごし、最悪の結果を免れたというのに体は未だ動こうとしないのである。
――まったく、俺らしくもない。
目を閉じれば瞼の裏に翻る派手なジャケット。奴を捕まえることが自分の存在意義であり生き甲斐。その信念は揺らぐことはない。微かに奴に意識を向けただけで我知らず力が入る右手がそれを証明している。
膝の上で握り締めた拳から視線を外し、再び横たわる男を見た。滅菌されたベッド、引き出しの上に取り残されたタイピン、似合わない病衣。いつもは皮肉めいた笑みを浮かべる唇も今は静かに結ばれるのみだった。
走り去るSSKを見送り、この男の傍に留まることを決めたのは義理、なのだろうか。スパイだったとはいえ、自分の配下にいた者に狙撃され負傷した次元に負い目を感じなかったと言えば嘘になる。だがしかし――。銭形は深く息をついた。プライベートの腕の中に忍び込んでくる黒い影が投げて来るからかいは悲鳴にも似て。一度くらいはそれに応えてやってもいいと思えたのかもしれない。
***
ふと空気が揺らぎ銭形は眉根を寄せた。視界の端に映るのは寸分たがわず自分の愛用のコートの裾。げんなりして目を上げればまるで鏡写しにしたかのような自分が立っていた。
「つまらん真似をするな」
低く唸ればくぐもった笑いの形に肩が揺れる。勢いよく取り払われた帽子とコートの下からは、まさに先ほど思い浮かべた笑みが現れた。
「でも今日の変装は完璧とは言えない出来だったみたいネ? とっつあんまでこんなにやつれちゃってさァ…」
いたずらに頬に触れてくる指をうるさげに振り払うとなれなれしくも挑発的な態度は鳴りを潜めた。点滴の袋や繋がれた機器を辿り、横になった相棒を眺めたルパンはほう、と息を吐いた。
「良かった。この分ならもうすぐだな」
穏やかな低音。瞠目し振り返るも、その横顔にシリアスな空気は感じられない。
そうそうと本音を零すような男ではないのだ、こいつは。非常時だからか。いや、他ならぬ自分の前で素を晒け出すヘマはしまい。
銭形の凝視を意に介する様子もなくルパンは備え付けの丸椅子を引っ張って来ると宿敵の隣に腰を降ろした。二人の視線の先に横たわる男は、依然弱弱しい呼吸を繰り返すのみだった。
「――あんたからは見えなかったろうけど、あの時な、次元はおれを庇ったんだ」
沈黙を破ったのはルパンの言葉だった。
「何?」
「逃走中、開かない車間に焦れてさ。一つ手品でも仕掛けようと思って運転変わってもらおうとしてたの」
ところが、その瞬間手のひらで頭を押さえつけられ、気付いた時には銃声と一緒に次元が車外に落ちていた。
「多分、次元には構えるスナイパーが見えてた。運転に集中してたとはいえ情けねぇよ」
ほんのわずか、滲み出る悔しさに安堵を覚えた。尤も認めるのは癪で、煙草が欲しかったが鼻息を鳴らすに留めた。
「だけど、それ以上におれはこいつに頭が来てる」
剣呑なセリフに顔を上げれば苦笑いの形に曲げられた唇。しかしその眼には病人の体を食破らんばかりの獰猛な光が湛えられている。咄嗟に手錠に伸びた指先はしかし溜め息で納めさせられた。
奴の手のひらが瞼ごと狭い額を覆う。しばらくのちゆるりと解かれた手の下で瞳はもう凪いでいた。
「あの場なら幾らでもやりようがあった。わざわざ一番リスクの高い方法を選ばなくても良かったんだ」
「…ああ」
わからないでもない。
長年追っていれば調書上にある文字データ以上のことも見えてくるものだ。それはルパンのみにとどまらず、次元についても例外ではなかった。
昔の女のためとか、かつての義理のためとか、そういう原理で動き傷だらけになった奴を眼にしたことも多い。自分を束縛する相手に噛みつくこだわりも勿論あるが、彼は根深いところでいつも自分より仲間を優先する。
「本能だろうな」
「そう。こいつ、おれのこと大好きだからさ。おれを失うくらいなら自分から死んじゃうんだよね」
ルパンの指が布団から出た手のひらに重なる。ゆるゆると撫でさする動きは慈愛に満ちていて、いやらしさのかけらもない。
二人を繋げる言葉には親友や双子や兄弟分の意味合いもあるのだろう。片方を失えば片方も無事ではいられない。気楽なだけの同胞でないことは確かだ。
わからないでもない。声に出さず呟いて銭形は溜息を吐いた。自分にも思い当たる節があったからだった。
「時に銭さんよ。おれを捕まえたら、その後どうする?」
「はァ?」
突然の話題転換に面喰いつつ宿敵の顔を見るも、応えるのはころころとにやけるビー玉の眼。両手を膝につき肩をいからせるその仕草に真意が見えない。
だいたい捕り逃し続けている自分に向かってよくもまあそんな問いが投げられるもんだとムッとする。
「無事に処刑が済んで諸々の後処理が終わったら?」
不機嫌に結ばれた唇を愉しげに眺めながらたたみかける言葉。引く気のない眼差しに圧され銭形は顎下を押さえる。
――死刑が済めば葬式をして、終われば墓を立てる。線香を上げて人々が引き払った後、――その後は?
今まで敢えて直視せずにいた未来に触れて喉まで上がってきた言葉を呑んだ。
不敵な笑顔は皮肉に歪み、多少哀しげでもあった。
「モテる男ってのも困りもんだよ。おれが死んだら共倒れになる人間が身近に二人もいるってんだから、おちおち怪我も出来やしない」
この男を捕らえるのが自らの意義であり生き甲斐。その信念が執着と呼ぶに相応しいものであることは自他共に認めている。そして、それはルパンも同じこと。
言葉に出すような野暮をしたことはない。だが彼の血には、自分以外の男に追われるなど想定すらない傲慢が脈々と流れている。
「お前の差し金か?」
なんと答えたものか、言葉を探しあぐねて浮かんだ疑問が口をつく。
自分の中の次元の印象からほど遠い強引な手管。最中の追い詰められた表情。暗く甘く潤った瞳。酒に溺れる代わりの、煙草に埋もれる代わりの、毒を呑む感覚の一夜。流せない涙の分だけ熱く濡れた快楽。生来の性質か、訴える意志すら気配を隠している。
らしからぬ行為が追い込まれた末の暴挙とするなら、原因はこの男以外にない。
「まさかぁ」
解ってるくせに、野暮なことを言うよね。ルパンは至極簡単に銭形の疑念を退けた。
承知で見逃したのが共犯と云うならそうかもしれない。上向いた口角は相変わらず真意を見せないが、爪先は楽しげに床を叩いている。
「仲間にも許さないテリトリーってのがあってさ。こいつのそれは、おれらより露骨なんだよな」
だけどあんたには違うんだ、と振り向く姿にぞっとする。浮かれた唇は今にも歌い出しそうでなぜか不安を覚えた。
「毛肌でわかるんだろうな、あんたと近しいって。一方的なシンパシーなら誤解で済む話だがよ、双方向なんだもんな。そりゃ本物だよ」
ルパンと視線で共有出来るものがある。形に出来ない熱、炎に身を抱かれる感触、ただ一対の獣になる一瞬。他人とは分け合えない衝動がそこにある。
一方、次元とはそういう感覚がない。何しろ、分け合う以前に境目がない。闇が夜に紛れるように、固形の蝋が火に溶かされていくようにただただ重なり蕩けていく、そういう刹那が横たわっている。始末に悪いのは、それが夜の諍いの以前からあったということ。
――形は違えど同じものに焦がれる事実が共感を生むのだと思っていた。思い込もうとしていたのかもしれない。
沈黙した自分にルパンは益々笑みを深くする。
「そんな二人が同じ位置に立つとなれば面白ぇよな、やっぱり」
エンドマークだって変わるかもしれない。弱気なのか強気なのかはっきりしない口調。或いは、本当に浮かれているのだろうか。
「それに、――おれも忘れずにいてもらえる」
ぽつりと落とされた台詞は陽気で、こればかりは聞き流すことが出来ない。
どうしてそう諦観しきってしまうのだろう。どうしてそう根幹を突いてくるのだ、泥棒のくせに。
咎めるような銭形の視線を避けるようにルパンはわずかに目を伏せた。
「あんたの夢を壊すようで申し訳ないけど、おれも所詮は人間だよ」
いつもの軽口めいた口調にほんの少し混じる真実味に握りしめていた拳がやんわりと解かれる。病室の空気が変わったのもその時で、口を開くのすら忘れてしまった。
「喋りすぎだぞ、お前」
掠れたローバリトン。三日ぶりでも素っ気のない語調。重たげでこそあるものの開かれた瞼。
「だって嬉しいんだもんよ」
微かに眉を顰めて自分を見上げる次元にルパンは相好を崩す。相棒を咎める眼線はじきに流れてすっと眼が合った。
やがて微かな物音に意識が向く頃には、ルパンの手は引き戸の取っ手に掛かっていた。
「じゃ、ごゆっくり」
閉じられたドアが躊躇いを遮断する。二人きりの病室で空調だけがあたたかい。
残されたおれ達は、さてどうするべきだろうか。
まぁ、どうせ現場は的確な指示の下後始末に奔走しているだろうし、時間を憂慮する必要はない。
黙ったまま視線をやれば真っ直ぐに返ってくる瞳。やがてゆっくり開いた眉が笑ったので、そっと額の髪を拭ってやった。
相田ともさんの素晴らしい原文は「軸を同じくして」/pixivでご覧になれます。というか原文そのままの部分も多いです…相田さんの言葉のセンスや文体のリズムが大好きなもので、自分でかきかえるの本当にあれでした…。とっても勉強になりました、ありがとうございます!