相田ともさんの「ふぁぼした人の文章を自分の文体でリメイク」という企画に挙手して拙作をリメイクしていただいたものです。
じとり、じとり。踏み出す毎に纏い付くシャツが不快指数を上げていく。朝から澱んでいた空気は次第に悪化し、今では霧雨となって銭形の帰路を蝕んでいた。
濁った灰色の空を見上げて肩を落とす。傘を忘れた彼の身は鉛のように鈍重だった。繰り返し浮かんだ後悔が未だ呪いめいて惨めな背中にのし掛かる。
今日もルパンの足取りを掴むことが出来なかった。
溜め息と共に眉間の皺は深まるばかり。更に悪いことには、水滴を拭おうと上げかけた手に手提げが追い打ちを掛けてきた。
思わず下ろした腕にぶら下がる袋の中には、総菜屋手製の弁当。本日の夕飯である。
このまま家に戻ったところで、薄暗く狭い部屋で一人さびしく出来合いの弁当を食って寝るだけ。そう思うと銭形の心は殊更沈んだ。
「ったく、気が滅入る雨だな」
一人ぼやいてもう一度顔を上げれば、路地の奥で明滅する街灯が眼に入る。二、三度の僅かなまたたき。弱々しい灯りの中、ぼんやりと浮かび上がる、アパートの門扉。
もう何度目かわからない溜め息を吐くと、銭形はまたのろのろと歩を進めた。
◇◇◇
錆び付いた外階段、光の射さない廊下を過ぎた辺りで、コートのポケットから鍵を探る。
廊下の電灯が切れてから、もうどれくらいになるだろう。そろそろ大家に進言すべきかもしれない。
考え事を続けながらふと眼を凝らすと、ちょうど自室の前に何かが見えた。
「何だ? 誰か、ゴミでも置きやがったか」
闇に溶け込む黒い塊。見たところ、中身を目一杯詰め込んだゴミ袋くらいの大きさだった。
「おれの部屋はゴミ捨て場じゃないぞ」
苛立ちをそのままに、しかし慎重に近付いて行くと、鼻を掠める鉄の臭い。反射で顔を顰めたところで塊の正体に思い至り、咄嗟に駆け寄る。
「お前……!」
血に塗れた左手に触れると、それはゆっくり顔を上げた。
「ゴミたァご挨拶だな、銭さん」
自嘲に似た苦い笑み。その血の気のなさに息を呑む。
「怪我してるのか、お前」
「ああ……下手打っちまった」
脇の下に手を差し入れて立たせてやると、次元は苦痛に顔を歪めた。
しかし、何故この男は自分の家を知っていたのか。疑問は尽きなかったが、目の前の病人を見捨てる訳にもいくまいと銭形は自宅のドアを開けた。
覚束ない足取りの次元を支え、部屋に縺れ込む。玄関を抜け、卓袱台の前まで来ると座椅子に次元を座らせ、自分は台所へ。濡らして絞ったタオルと、それから流しの下の救急箱を用意する。
職業柄、銭形も生傷が絶えない。小さな怪我ならば自分で処置するのが当たり前で、消毒薬や包帯、ガーゼくらいは常備していた。蓋を開けて中身をざっと確かめる。
「応急処置しか出来んぞ」
こくりと頷いた彼の前に道具を置く。緩慢にジャケットを脱ぎ出す姿に、自分も被ったままの帽子を取った。一緒にコートもハンガーに掛けて鴨居に吊すと、色濃く濡れたのがよく解る。取り戻しかけた不愉快は、しかし背後の呻きに遮られた。
「いてェ」
踵を返せば、シャツまで取り払った男の姿。露わになった傷口に思わず呆れる。
「成程凄い傷だな」
血塗れの左肩。傷の判別すら付かぬほど赤く染まった患部は眺めるだけで気が滅入る。次元の上半身はそれ以外にも大小様々な擦過傷や裂傷、打撲痕に覆われ、暴力に事欠かない。
「肩以外は大したもんじゃねぇけど……」
ぽつり。ボルサリーノの下から漏れた言葉はしょぼくれて覇気がない。珍しく頼りなげな声音に、銭形は不覚にも驚いた。
盗みで見せるポーカーフェイスにこんな表情はない。角度のせいで読めない顔色が残念で、不意にほころびかけた唇を叱咤し引き締める。
「とりあえず拭け」
鼻先に差し出すタオル。受け取った彼はそれをおもむろに肩へ乗せると、右手で押さえ込み強引に拭った。案の定、聞こえてきた情けない声に首を振る。
全く、随分乱暴な処置もあったものだ。仕事柄、傷の手当は必至だろうに、わからない奴。
「今度は何をやらかしたんだ」
腰を下ろし、救急箱を開く。傷口を消毒してやりながら、その深さにまた眉間が寄る。
この男がこれだけの深手を負うとなれば、浮かぶ危険は限られてくる。いかに犯罪者とはいえ、無造作に身を投げる蛮行には頷けない。
「何って」
返された、気だるげな声。くしゃくしゃのジャケットから煙草を探り出し、咥える口元にはいつもの笑顔。
「そりゃあ、アンタに云えたことじゃねぇよ」
むっとして視線をずらす。相変わらず目元は見えないが、構わない。
「そんなら、何でワシを頼る? まっすぐアジトへ帰ればいいだろうが」
「アジトにゃルパンがいる」
「だろうな。だからどうした」
「こんなぼろきれみたいな恰好で帰ると煩いからな」
「だァからって何で……!」
素っ気ない態度に怒鳴ろうとした寸前、次元の手が伸びてくる。胸ポケットに差し込まれた指先は、動揺の隙間を縫ってライターを抜き取り去っていった。
弾かれるジッポ、くゆる炎。振り撒かれる香ばしい煙。
「でかい声出すなよ銭さん、近所迷惑だぜ」
「ぐ」
渋面のまま、半ば浮いていた腰を落とす。悪あがきの睨め付けは素知らぬ顔に流され、頭を掻いた。
流石にあいつの相棒は伊達ではない。長年奴と組めるだけあって、手強さに関しては一人前だ。
銭形は諦めて大人しくしんせいを咥えた。
◇◇◇
訪れた静寂で雨垂れが主張する。窓を穿つ雨足に本降りを感じていると、吸殻の潰れる音がした。
「銭さん」
「何だ」
視線の先、次元は顔こそこちらに向けているものの、その目線は銭形より先に向いていた。見つめられた床の一点、畳の上に鎮座するのは提げて帰ったあのポリ袋。
思わず掴み、勢いよく背に隠す。
「腹減った」
「ば、馬鹿云え、これァおれの分しかねェぞ!」
「……腹減った」
表情を変えず、にじり寄る元殺し屋。近付く脅威を前に、こちらもボディガードよろしく弁当を庇う。そうして距離を詰められる毎に後退していたが、やがて背中が壁に付くと、銭形は勝敗を悟った。
「解ったよ……食え」
「マジで? やったーい!」
素早く袋を奪取した次元はそそくさと卓袱台の前に戻っていく。
何が“マジで?”だ、白々しい。
大喜びで袋を漁る後ろ姿は、眺めていると野良猫を拾った気分になるから不思議だ。
次元の向かいに座り、あぐらを掻く。彼は弁当を、銭形は備蓄していたカップ麺を、各々もそもそとかき込んだ。
「ふー、食った食った」
「ゴミは自分で片付けろよ。済んだらガーゼ取り替えてやる」
「ん」
応えて、次元は肩を見下ろした。血はうっすらと滲んでいるが、痛みはさほど感じない。
アンタ、いい奴だな。漏らした台詞に、銭形は面白くない顔で鼻を鳴らす。
お前に比べりゃ大抵の人間はいい奴だ。つっけんどんに返す彼に、次元はただ笑みを深くした。
◇◇◇
左肩、貼り付いたガーゼを乱雑に毟り取られ、次元の顔が歪む。
「いてェよ銭さん、もちっと優しく」
ぼやく次元を無視して、銭形は消毒液を吹き付けた。
「で、今度は何を企んでるんだ」
しつこい問答に緩む口角。この男はそうやって何度も自分たちを追い込んできた。種のある普段ならともかく、無関係な今回はまるっきり空振りだ。
「まァたそれかよ、何も企んでなんかいねェって」
「ルパンとの仕事絡みなんだろ?」
なぜだろう、胸がひりひりする。今日のことで負傷したのは左肩で、胸元には特別大きな損傷はないはずだが、よくわからない。
「あいつは関係ない。おれの……おれだけの問題だ」
新しい一本に火を点ける。細く立ち上る白煙の中、吐息を零した唇がそっと呟く。
「だから、アジトには帰りたくなかった……こんな状態で帰れば嫌でも根掘り葉掘り詮索されるからな」
自分の尻拭いにいちいち首を突っ込まれたくはない。
淡々とした告白に、銭形は傷の周囲を拭く手を止めない。
「ワシならいいのか」
眼を合わさず返された言葉に一瞬の沈黙。
「銭さんは踏み込まないだろ?」
かっとなって顔を上げた銭形は、その眼に反論を飲み込まされた。
黒い瞳。確かに穏やかなのに、底なしの闇を思わせる昏い瞳。
この男が初めて自分の前に現れた時と同じ色。
あの頃、ルパンは殆どの仕事を一人でこなしていた。たまにパートナーと組むこともあったが、その相手はろくでもない小者ばかり。ルパンの名声や仕事で得られる破格の富を目当てにするばかりか、その欲を隠そうともしない三流たち。次元もどうせその類だろうと見限っていた銭形だが、その日認識を改めることになる。
ルパンと次元が組み始めて数回目のヤマ。人海戦術を基軸にした作戦は功を奏し、警官隊は順調に二人を追い込みつつあった。
昼日中のオフィス街に響くサイレンとエンジン音。迫るパトランプの唸りをベンツの馬力が退ける。
当時、現場の特殊性故に、銭形は発砲許可を出さなかった。だが、投げ手錠の間合いにルパンを捉えた時、予期せぬ重低音がアスファルトに木霊する。
音源には一人の刑事。別の管轄から派遣された彼は、手柄を焦ってか、立て続けに発砲した。
「馬鹿野郎、一般市民もいるんだぞ!」
合理的な理由はしかし建前。飛び道具の使用を抑えたこちらの策を見越したルパンはほぼ丸腰だった。
生死問わずの逮捕は本意ではない。焦る銭形を余所に、黒い影が席を立つ。
グリーンジャケットの背中を遮る男を目がけて弾丸が飛ぶ。素人の連射は次元の頬や腕を掠めたが、彼は飛び散る血にすら構わない。滑らかな動作で愛銃が構えられる間、最後の一発がボルサリーノを吹き飛ばした。その瞬間、曝される彼の瞳。
「……っ」
気を取られる内、銃口からマグナム弾が放たれ、銭形のソフト帽は宙を舞った。
リーダーの狙撃に乱れる隊列。生まれた混乱に微笑みを残し、彼らは悠々と去っていった。
「くそ……!」
咄嗟に追おうとした身体を周囲に止められ歯噛みする。
未だ謎の多い次元を無闇に深追いして隊長が倒れては元も子もない。部下の配慮はもっともだった。
ざわめきの中心、足下に転がった帽子を拾う。
確かに腕の立つ男だ。わざわざ帽子を狙ったのも警官殺しを嫌うルパンのポリシーに従った結果だろう。これまでの一時のパートナーとは違う、真の相棒。恒久的なその座をルパンが次元に授けたのも頷ける。
まだ少し熱の残る、帽子の中心の風穴をそっとなぞる。
何より、あの眼。吸い込まれそうな闇を湛えた眼を思い出し悪寒がした。
あの時、次元はあっさりとルパンの盾になった。何の衒いもなく捨て身になれる彼は危険だと本能が告げている。彼の纏う死の気配は、彼がこれまで手に掛けた人間のものだけでなく彼自身からも発されるものだった。何かを守るためならば死を厭わない人間の強さを、銭形は嫌というほど知っている。
頭の片隅に残る不吉なシルエットに首を振る。
それからだ、ルパンのことを考えると影のように次元の姿がちらつくようになったのは。
ばちばち、ばち。強まった雨粒の音で、銭形は我に返った。
「おれは警官だぞ」
「へぇ」
さも意外だと云わんばかりに、次元の眼が丸くなる。
「ルパンが絡まなくてもおれに興味があるのかい?」
これ見よがしに煙を揺らすにやけ面を睨む。
「妙な云い方すんじゃねェ」
ルパンが関係しようとしまいと、目の前の犯罪被害者、ないしは加害者を見過ごす訳にはいかない。語気を荒げた力説はすんなりひらりといなされる。
「嘘だね」
「な、」
「あんたがその気なら、おれはとっくにブタ箱の中だ」
ぶわ、と吹きかけられた紫煙に、また銭形の表情が苦くなっていく。
それこそあの男の影になっていて忘れがちだが、あの病的な饒舌家に負けず劣らずこの男も弁の立つ手合いだった。いや、皮肉を効かせることに掛けてはあいつ以上かもしれない。
上手い返事を思いつかず、結局舌打ちする。ついでに手荒い動作でガーゼを貼り直し、その上から加減なしで叩いてやった。
「いッて」
「いつまでも他人ン家で裸でいるんじゃねェ!」
「無茶苦茶だよ銭さん」
云いがかりなのは自覚済みだが、それでも収まらず、そこらに畳みっぱなしで放置していたシャツを掴んで投げつけた。
「汚れたシャツをまた着ろってのも可哀想だからな、とりあえずそれでも着とけ。おれはもう寝るから! 夜が明ける前に帰れよッ」
明後日の方角へ向け、声を張り上げる。しかし、からかい混じりのあの声はいつまで経っても返ってこない。不思議に思い振り返ると、次元は投げられたシャツを手に持ってまじまじと見つめていた。
「……ちゃんと洗濯済みのはずだが」
「ん」
控えめに促すと、次元はゆっくりとこちらを向いた。
「いや、何かさ……おれが銭さんの部屋で、銭さんのシャツ着て……って、なんか、すげーヘンな気分」
勝手に押しかけて来たのはそっちだろう、と浮かんだ文句はすぐ消える。
次元は笑っていた。普段のカッコつけのニヒルな笑みではなく、照れ臭げな屈託のないはにかみ。
どこか幼くも見える笑顔に、毒気を抜かれて息を吐いた。
「お前も少し寝るといい。そっちに布団敷いてやるから」
長年使っていない客用布団に多少の不安はあるが、仕方ない。銭形は卓袱台を足で壁際に寄せ、寝床を作ってやった。
霧の向こう、雨の止む気配はまだない。
原文はぴくぶらに置いてあります。完結したら加筆修正してサイトにも置こうかなとか思ってます。もう本当素敵にリメイクしていただいて感無量です、あと自分の力不足も痛感した…原文全部これで上書きしたいくらいですwありがとうございました!