何度だって最初からやり直すし、やり直せる。
いつだって、振り返ればアンタはそこにいたから。
何度繰り返しても飽くことはなく、だってそれはいつも変わらず・でも一つとして同じものなんてなかったから。
漠然と思いながらルパンは手に力を込めた。
「止まれ、止まってくれよ……!」
呟いた声には彼らしくもなく焦燥が混じっていた。指の間から滲み出る赤色は、そんな彼の想いを嘲笑うかのようにジワリとその面積を広げる。ますます焦って握り締めた端切れを押し付ける。元は彼のワイシャツの袖だったそれは、銭形の血を目いっぱい吸って赤黒くなっていた。
失うなんて、考えたこともなかったのに。ゆっくりと、でも確実に指の隙間から零れて行ってしまう。
「ダメだ、ダメだダメだ」
これ以上流れるな。平静を失ったルパンの声に銭形は薄く目を開ける。逆光で見上げるその顔は、怒っているようにも泣いているようにも見えた。
「――お前らしくもねェな、ルパン三世」
乾ききって引き攣れる唇をやっとのことで動かして銭形は呟いた。
「こんな商売してりゃ、いくらでも人死になんか見てきただろう?」
その言葉にルパンは目を見開き、銭形の傷から顔に視線を移した。
「……なに、言ってンだヨ、とっつあ ん」
僅かの逡巡ののち口を開いたルパンの声は震えていた。
「アンタが死ぬわけない、だって」
俺を追わなくちゃいけないんだ、勝手にドロップなんて許さねぇからな。身勝手な言葉を呑み込んでルパンは銭形の顔を見つめた。
「自分がどうなっとるかは、自分が一番解ってる」
血の気を失ったその顔は状態が芳しくないことを如実に物語っていたが、銭形は気丈にも口角を上げて見せた。腹に手をやり、ルパンの手を避けて傷に触れると鈍い痛みとともにべったりと濡れた感触がした。ひでェもんだ、呟いて顔を顰める。
「悪いが起こしてくれねェか」
仰向けに横たわっている銭形の目には抜けるような青空が映っていたが、そこに浮かぶくっきりとした雲すら霞んで見え始めていた。
――お前の顔をちゃんと見たい。
呟いてルパンを見ると、ルパンは不承不承銭形の体の下に腕を差し入れ、慎重に彼を抱き起した。
「…っ、」
動きに伴い激痛が走る。銭形は声を漏らさないよう奥歯を噛みしめた。
「……とっつあん」
俯いて荒い息を吐き、痛みをやり過ごしていた銭形はルパンの声にゆっくりと顔を上げた。不安げで、頼りない、まるで親にはぐれた子供のような声だった。
「なんちゅう声出してんだよ」
苦笑しながら言ってみるも、銭形は自分の鼻の奥もつんとしたことに気が付いていた。
――常日頃、いつでも死ぬ覚悟はできている、なんて上司や同僚・部下に嘯いていた銭形だったが、この世に未練があるとしたらそれはたった一つ、目の前の男のことだけだった。
銭形は緩慢な動作で腕を上げた。既に指先は冷たく、感覚は鈍くなっていたが、それでも震える腕を伸ばした。ルパンの頬に触れかけた手が躊躇ったのは、その手が自らの血で汚れていたからだった。
「血が……ついちまうな」
力なく笑って下ろそうとした手をルパンは咄嗟に掴む。
「構わない」
銭形の顔色を窺いながら、ルパンは慎重な手つきで銭形の手を自らの方へ導いた。ぬるりとした感触、次いでざらざらとした硬い指がルパンの頬に触れる。
「……ああ」
溜息のような声を漏らして銭形は目を細めた。
先程までの爆撃が嘘だったかのように辺りは穏やかな静寂に包まれていた。
まるで、世界に存在しているのは自分たちだけのようだと銭形はぼんやり思う。
ルパンの耳には自身の鼓動と、銭形の不安定な呼吸音だけが不自然なほど響いて聞こえた。ルパンの手の中で銭形の指がぴくりと震え、優しくルパンの頬を撫でた。
こんなにも近くに居るのに、もう、銭形の目にはルパンの輪郭がぼんやりとしか映らない。
最期までこの男の真の姿を掴むことができなかった、そんな想いが過ぎって改めて自分の執着の大きさに気付き、銭形は浅く息をついた。その拍子に体がグラリと傾ぎ、背中を支えるルパンの腕に力がこもる。
「…とうとう、お前を、捕まえられなか、ったな」
掠れて消え入りそうな銭形の言葉にルパンの顔は歪んだ。銭形の手を包み、自分の頬に添えていた手を離すと銭形の背中に回して両手でぐっと体を抱き直した。
「――俺は」
銭形の肩口に寄せた唇が震えた。
「とっくの昔にアンタに捕まってたよ」
銭形の目は大きく見開かれ、やがてゆっくりと伏せられた。そしてその手がそろそろと確かめるようにルパンの背中に触れる。そのあまりの力なさにルパンは動揺したが、銭形に気取られないよう必死に唇を噛みしめた。
暫く二人はそのままじっと動けずにいた。
静寂が耳に痛い。その中で徐々に浅く弱弱しくなっていく銭形の呼吸を聞くのがルパンには酷く辛く思えた。けれど、気を逸らした瞬間にそれが途切れてしまう気がして、その予感はルパンにとてつもない恐怖を与えた。ルパンは自分に言い聞かせるように、再び同じ言葉を繰り返す。
「俺は、もうずっと前からアンタに捕まってたよ、もしかしたら最初っから」
力強い視線が真っ直ぐに自分を射抜いたあの瞬間。何よりも自由を愛する大泥棒の心を、銭形はいともたやすくがんじがらめにしたのだった。自分が囚われたのと同じかそれ以上に強く、銭形を自分に惹き付けておきたかった。
ルパンは銭形を抱く腕に力を籠め直した。
「――だからこそ、必死で逃げ続けたんだ。そうすれば……」
語尾が震える。そうすれば、どんなに離れたとしても最初から何度でもやり直せる。追ってくるのならば、逃げ続ければいい。物理的な距離が離れるほど、それを詰めようと必死に追ってくる銭形と自分の間にあるモノ――それを何と呼べばいいのかルパンには解らなかったが――は強く、確かなものになっていく。
逮捕されなければ、逃げる自分と追う銭形という関係は形を変えながらも永遠に続くと思っていたのだ。終わることなど考えてもみなかったし、もし、万が一それがあるとすればそれは自分たちの意思で、自分たちの手で決着をつけるべきものであり、決して第三者が勝手に幕を下ろすなんてことは赦せなかった。
――それくらいならいっそ、
「…は、」
銭形は笑いにも似た息を吐いてルパンの背中に添えた手をゆるゆると上下に撫でた。それは父親が泣きじゃくる子供を宥めるかのような慈愛に満ちた手付きに似て。
「まったく食えねぇ男だよお前は」
その声は既に囁きに近い微かなものだった。
「――あの世でまでお前を追いかけるのはごめんだぞ」
「!」
銭形の言葉に己の胸の奥底の仄暗い考えを見抜かれた気がしてルパンは弾かれたように顔を上げた。
「とっつあん……?」
呼ぶ声に返事はなかった。背中を撫でていた手がずるりと滑り落ちていく。
「……嘘、だろ、な、なぁってば」
思わず肩を掴むとガクリと頭が揺れた。ルパンのジャケットの裾にかかっていた銭形の指が重力に従って地面に落ちる。ルパンはなおも何か呼びかけようと口を開いたが――、言葉が出なかった。
ただ、ひたすら銭形の顔を見つめ続けていた。
「ルパン!」
セスナ機で現場に駆け付けた次元が目にしたものは、爆撃で更地のようになった赤茶けた地面のまん中で横たわる銭形を抱きかかえ石のように微動だにしないルパンの姿だった。何度も呼びかけるが反応はない。声は届いていなかったとしても、セスナのエンジン音に気付かないはずはないのに。
「くそっ、もたもたしてる暇はねぇんだぞ……!」
風にガタつく機体を必死に立て直しながら次元は叫んだ。ただでさえ気流が乱れやすい場所なのに、爆撃で地形が変わってしまったせいでさらに風が読み難くなっている。その上自分たちのセスナに気付いた私設軍がルパン生存の可能性を知って引き返してくる恐れもあった。
「次元、二時の方向を見ろ」
後部で縄梯子を下ろしていた五右ヱ門の言葉に顔を上げると地平線の向こうにもうもうと上がる土埃が見えた。
「ヤツらか……!?」
操縦桿を力任せに引いていったん上昇する。双眼鏡で前方を確認した五右ヱ門は首を横に振った。
「警察だ」
「どっちにしたってまずいことにゃ変わりねぇな」
「拙者が行く」
次元は頷いて高度を下げた。十分に下がりきらないうちに五右ヱ門はひらりと飛び出し、またも機体が揺れる。
「ルパン」
赤いジャケットの目と鼻の先に着地したというのに、さしたる反応を見せない相棒に五右ヱ門は声をかけた。次いで銭形の顔に視線を落とし、ギュッと眉根を寄せる。
「ルパン、追手が来ている――行くぞ」
一切の感情を押し殺して五右ヱ門は静かに言った。それでも動こうとしないルパンの肩を掴む。五右ヱ門の掌の下でルパンの体がびくりと震え、ゆっくりと顔が振り向いた。その左半分が真っ赤に汚れていて、怪我をしているのかとギョッとしたがすぐにそれが彼自身の血ではないことに気付く。今はじめて五右ヱ門の存在に気付いたかのようなルパンの表情は五右ヱ門が見たことがないもので、彼の心を痛めるには十二分すぎるものだった。
「時間がない」
心を鬼にして腕を掴んで無理やり立たせる。一瞬強い抵抗があったが、ルパンは五右ヱ門に引かれるままのろのろと立ち上がった。それでもできる限り長い間銭形の体に触れていようと腕を伸ばして。上空で旋回していたセスナの高度が再び下がり、五右ヱ門は空を仰いで縄梯子を掴む。
「先に行け」
掴んだ縄梯子をルパンに差し出すと、ルパンはきょとんとした顔で五右ヱ門を見た。
「でも、」
気遣わしげな視線を横たわる銭形に送る。その様子に五右ヱ門の胸に鋭い痛みが差した。震えそうになる声を抑えつつ再び呼びかける。
「銭形殿なら大丈夫だ、もうすぐ警察の救援が来る」
半分本当で、半分嘘だということは自分にも解っていた。殺し屋を生業としてきた五右ヱ門には、今目の前の銭形がどんな状態なのかは痛いほどに理解していた。絶望しかない現実をルパンに突き付けなかったのは、相棒を思いやっただけではなく五右ヱ門自身の願いもあってのことだった。
「……そうか」
ルパンは五右ヱ門の顔を見てほんのわずかだけ口角を上げると縄梯子に足をかけた。五右ヱ門の優しい嘘を信じたわけではなく――ただ、この年若く不器用な相棒にそんな気遣いをさせた自分が情けなかった。
二人が機体に手をかけられる状況になったのを確認して次元はセスナを上昇させた。大地がみるみるうちに遠ざかっていく。誰も口を開こうとはしなかった。ルパンは小さくなっていく銭形の姿を食い入るように見つめていた。やがて到着した夥しい数の緊急車両が、銭形を中心にした半円状になって折り重なるように停止する。開いたドアから飛び出してくる機動隊員たちが銭形に向かって駆け出す。
そんな風景が地平線の向こうに消えて行っても、ルパンは黙ったままずっとその方向を見つめ続けていた。
――約一年後。
「待ったかルパン」
「いンや」
墓地の一角に佇むルパンに歩み寄った次元は相棒の視線を辿ってその先の墓碑を眺めた。ルパンは軽く息を吐き出すと内隠しから煙草を取り出して咥える。それに火をつけてやって、次元は帽子のつば越しに空を仰いだ。
「……あの時も、こんな陽気だったな」
青く、高い空。穏やかな日の光が自分たちに木の葉の影を落としている。乾いた風がその影を揺らした。次元の言葉を受けて五右ヱ門が口を開く。
「拙者はいまだに信じられんのだ、――あの銭形殿が」
遮るようにルパンの手が上がる。それを見て五右ヱ門は口を噤んだ。あの後、アジトに戻ったルパンは幾分気を取り戻し――、むしろ何事もなかったかのように振る舞う相棒の強靭な精神力に五右ヱ門は驚かされた。しかし、この飄々とした佇まいの内側にどんな感情が渦巻いているのかと思うにつけ、胸が痛んだのだった。
次元は自分も煙草を取り出して火をつけると、煙を吐き出して再び墓碑に視線を落とした。質素だがまだ新しいそれは、木漏れ日を受けてささやかに光を反射していた。――まったく、お前さんの執念深さには恐れ入ったぜ。そんな思いが胸をよぎる。
静かな墓地の平和を破ったのはけたたましいブレーキ音だった。
振り返った三人の目に、墓地を囲う鉄柵の向こう側にまさに今しがた停車した黒塗りのセダンが映る。
「なんだぁ?」
呆気にとられたルパンが呟くのと、開いた車のドアから何かが飛んできたのはほぼ同時だった。目を丸くした次元と五右ヱ門が飛んできた物体の行方を辿ると、それは鈍く光る金属製の輪で、ルパンの手首にがっちりとはまっていた。高らかな笑い声が響く。
「見つけたぞルパン! 今日こそ観念してお縄に付け!」
何度聞いたか解らないお馴染みの声、お馴染みのセリフ。次元は呆れたような顔で車から降りてくる声の主を見た。
「俺もいまだに信じられねぇぜ、あの銭さんが一命を取り留めたばかりか一年足らずで現場復帰とはな」
「化け物でござる」
ガシャンガシャンとやかましく音を立てながら鉄柵をよじ登る銭形を眺めながら呟いた五右ヱ門に次元は苦笑した。
警察の医療機関に収容された銭形は、一時心停止に陥ったものの、警察の総力を挙げての対応と、自身の驚くべき体力のおかげで一命を取り留めた。それでもしばらくは意識が回復せず植物状態が続いていたのだが。
「部下が病室でルパンに関する報告書を読み上げてたら目を覚ましたってんだから」
「愛だよねェ」
次元の言葉に重ねるようにルパンは呟いた。うっとりとした表情で送る視線の先には鉄柵の内側に降り立ったものの投げ手錠の縄が柵に絡まってほどこうと四苦八苦している銭形の姿があった。
「けっ」
次元はうんざりした表情になる。
「なぁにが愛だ、変態かお前は」
次元の悪態もどこ吹く風と言った体でルパンはニヤニヤと眦を下げながら銭形に視線を注ぎ続けている。
「――拙者はもう行くぞ」
相棒二人と同じように銭形の動向を注視していた五右ヱ門は、銭形が鉄柵に絡まった縄をほどき終わりそうになっているのを見てとって半歩後退った。次元は煙草を地面に捨てると爪先で火を消す。
「俺もお先に失礼」
軽く肩を叩くと先に駆け出した五右ヱ門の後を追いながらあの日のことを思い出す。
あの後ルパンは必死に銭形の様子を探ったが、警察の方でも厳重な箝口令が敷かれたようでまったく情報が得られなかった。ルパンの執念はやがて自分たちを攻撃した私設軍の壊滅に向けられた。彼らしからぬ報復に、次元も五右ヱ門も内心これは仇討ちなのだと思ったが実際に口に出すことなく協力した。軍はあっさり解体したが、トップである総帥は逃げ出し見つけ出すのに少々時間を食った。この間に銭形が生きているという情報は掴めていたが、それでもルパンの気持ちはおさまらなかったらしい。
結局一人でそれを追いつづけたルパンが決着をつけたのだが――墓までその死を確かめに行くと言い出したルパンに、彼の闇の深さを改めて思い知ったのがつい先日のことだった。コイツだけは敵に回したくない。次元は強くそう思った。
「え、ちょ、待ってよ」
あとに続こうとしたルパンの体をぐいと引き戻したのは手首にはまった手錠だった。振り向くと数メートル先に不敵に笑う銭形がいた。
「逃がしはせんぞ、ルパン」
銭形の声が、自分の名を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、ジワリと何かが込み上げて来てルパンは慌てて顔をそむけた。手首を戒める手錠を外そうと探る指が喜びに上擦って跳ねる。
「無理すんなよォとっつあん、体に障るぜ? 快気祝いはまた今度改めて――」
カシャン、と音を立てて手錠が地面に落ちる。振り返ると今まさに掴み掛らんとする銭形の顔が目の前にあった。
「してやっから、今日はバイバ~イ♡」
距離の近さにたたらを踏む銭形のうなじに手を回し、わざと派手な音を立てて頬に口づけると銭形の丸い目がますます大きく見開かれた。
「っ、ふざけるな、このっ……!」
振りかぶった腕は一瞬遅く空を掻く。つんのめった銭形が体勢を立て直した時にはルパンは既にだいぶ離れたところまで逃げ出していた。視線の先でひらめくジャケットの裾に、銭形の足は反射的に地面を蹴っていた。逃げたければ逃げればいい、どこまでも追っかけてやる。そんな思いを胸に駆け出す銭形の顔には笑みが浮かんでいた。
――何度だって最初からやり直すし、やり直せる。
追われたければ、逃げ続ければいい。
物理的な距離が離れるほど、それを詰めようと必死に追ってくる銭形と自分の間にあるモノ――それを銭形は赤い糸と呼んだ――は強く、確かなものになっていく。