――降り注ぐ太陽が眩しくてたまらない。
帽子の鍔越しに空を仰いだ男は顔を顰めた。
「大丈夫か」
男の傍に立つ茶色のスーツを着た相手は建物の陰から通りの向こうを窺いながら言った。
「今度は何をやらかしたんだ、お前ら」
通りに人の気配がないことを確認し、答えない男に焦れたように相手は振り返った。と、その眼が大きく見開かれる。
「撃たれたのか、お前……!」
男のジャケットの肩は無残に破れ、そこからじくじくと鈍い赤が染み出していた。
「大したことない、流れ弾がかすっただけだ」
言葉とは裏腹に弱弱しいその声を聞いて相手は小さく舌打ちした。乱暴に男のジャケットを脱がせると傷口を確かめる。
「痛いだろうが、我慢しろよ」
ハンカチを取り出すと男の傷口に当て上から力を込めて圧迫する。男はわずかに顎を上げてぐ、と呻いた。
「……容赦ねえな、銭さん」
繰り返す浅い呼吸の合間に憎まれ口を叩くが銭形は答えない。しばらくグイグイと掌で押し続けると、男の襟元から抜いたネクタイでハンカチごと傷を縛り上げた。
「本当はもう少し押さえといたほうがいいだろうが、悠長なことは言っとられん」
手の甲で額の汗をぬぐった時、背後で砂を踏む音がした。振り返った二人の目に映ったのはライフルを持った追手だった。向こうにとっても探していた標的にこんなところで出くわしたのは驚きだったのだろう、銃を構える前に一瞬の迷いがあった。
「チッ」
次元は舌打ちするとマグナムを持った腕を伸ばした。既に照準は定まっている。引き金を引こうとした彼の視界をブラウンの背中が遮った。驚く次元の目の前で銭形はその長い脚で一瞬にして追手との間合いを詰め、首筋に手刀をたたき込む。声もなく崩れ落ちる追手を見ることもせず、彼は驚いた顔で自分を見ている次元にここから離れることを促した。
「行くぞ次元、五番通りに車を待機させてある」
五番通り……遠いじゃねぇか、男は内心毒づきながらも相手について走り出した。
自分を探している男たちの声を背中に聞きながら次元は狭い路地をめちゃくちゃに駆けるウィンター・リーフカラーの後ろ姿を追いかける。常ならば自分が追われる立場なのに、と思いついて笑みをこぼす。どこをどう走っているのか次元には見当がつかなかったが、男たちの声はだんだんと遠ざかって行った。しかし、いったん広い通りに出、再び狭い路地に身を滑り込ませようとした時に角から出てきた追手がこちらに気付く。
「いたぞ! こっちだ!」
背後に迫る声に次元は振り向きざまトリガーを引く。くぐもった悲鳴を上げ、銃を落とす追手を視界の端に見ながらまた駆け出す。傷を負った肩は熱を持ち、じんじんと痛むが、それでもその狙いは的確だった。
「さっきの! 男! やっぱ撃てばよかったんだよっ!」
手刀で倒された男が仲間に自分たちの逃げた方向を告げたに違いない、と次元は苛立った声を銭形の背に投げた。
「銃声を聞かれたらもっと早く居場所が知れるだろうがっ」
銭形は足を止めることなくぶっきらぼうに答える。――既に追手に見つかってしまっているこの状況でそれを言うか、と次元は眉根を寄せた。
「だいたいあんな小物、お前が殺すことはない」
T字路で立ち止まった銭形は慎重に左右を確認しながらつぶやいて、次元は驚いてその背中を見上げた。建物の壁と、銭形のソフト帽と肩の線に切り取られた空が見える。その抜けるような青さと、ちょうど銭形の頭の真上に浮かぶ太陽の眩しさが網膜を焼き――、眩暈を覚えた次元は息を呑んだ。
遠ざかった追手の声が完全に聞こえなくなったところで銭形は歩調を緩めた。ついてきていた次元が横に並ぶのを待ってふう、と息を吐く。
「ルパンはどこだ」
「……知らねぇ」
「五右衛門は」
「知らねぇよ、アンタに会う大分前にバラバラになっちまった」
次元の捨て鉢な物言いにむっとした顔になった銭形は、その顔を覗き込んで目を丸くした。元々血色がよいとは言い難い次元の顔は、紙のように白くなっていたのだった。
「もう少し歩けるか? この坂を上ったところに小屋がある、そこで休もう」
「別に……いいよ、もう放っておいてくれ」
乗り気しない返事をする次元を強引に半ば引きずるように銭形は歩き出す。何か言いたげに口を開いた次元は、だがしかし言葉を発することなく黙って銭形について行った。小屋についた銭形は、入り口のドアに手をかけたが施錠されているため中に入ることを諦め、通りから見えない建物の陰を入念に探すとそこに次元を座らせた。
改めて間近で銭形を見た次元は眉根を寄せた。
「あんたも、怪我してるんじゃねえのか」
「どうってこたぁねえよ、茶飯事だ」
ぜいぜいと肩で息をする次元の傷口を確かめ、縛っていたネクタイを緩めると使い物にならなくなったハンカチを無造作に投げ捨てる。かわりにジャケットを脱ぎ自らのワイシャツの袖を引き裂くとまた次元の傷口に被せて押さえこんだ。
ぬるい風が二人の頬を撫でる。
「――雨が来るな」
「え?」
ベージュの帽子の鍔を上げ空を見た銭形の言葉に次元が顔を上げると鼻先に大粒のしずくが落ちてきた。
パタパタと音を立て埃っぽい地面を濡らし始めたそれはあっという間にあたりを覆い尽くす。
「スコールか」
「ああ、しばらく待てばやむだろう」
空は妙に明るいのにバケツをひっくり返したような雨に打たれて二人は短く言葉を交わしたきり黙っていた。
どれほどの時間が経ったのか。
静かな雨にけぶる街並みを高台から眺めていると、なんだか世界から遮断された雨の檻に閉じ込められたような気になって、銭形は目を閉じ眉間を揉んだ。
ふと次元がガタガタ震えていることに気付く。
ここは比較的年中暖かい土地柄で、だからこそいつも来ているコートを着用せず偵察に出てきたのだが――少しずつとはいえ血液を失っていっている次元の体温は突然の雨にどんどん奪われていっていた。
両膝を抱えそこに自分の額を付けたまま震えていた次元の肩にばさりと何かがかけられる。顔を上げると銭形のジャケットを頭から被せられていることに気付いた。今更ながら自分が着ていたジャケットを最初に身を隠した路地裏に忘れてきたことを思い出す。思わず非難めいた目線を向ければ、それを知ってか知らずか銭形は眉を跳ね上げた。
「寒いんだろ、それ被っとけ」
言って煙草をくわえ火をつけようとしたがこの雨で自分の手もライターも煙草もびしょびしょになってしまっている。あきらめ悪く何度か火をつけようとあがいたが結局無理だと悟ると舌打ちしながら煙草を投げ捨てた。その様子を見て次元はわずかに唇の端を持ち上げる。
「なぁ」
「ん?」
「まだ、寒いんだけど」
雨足はまだ弱まりそうにもなかった。次元の言葉に銭形は一瞬考え込むが、自分も次元の横に腰を下ろすとジャケットの下から次元の体に腕を回し自分の方に引き寄せた。
「……とっつあんって体温高いのな」
「黙ってろ」
濡れたシャツ越しにじんわり体温が伝わってくる。言われるがままに口を閉ざして雨にけぶる風景を眺めていた次元はあることに気付いて身を硬くした。
濡れたシャツは防御壁の役目を全く果たしてはくれなかったのだ。
体温だけでなく鼓動や息遣い、銭形が身じろぎする際の筋肉の動きまで。まるで直接肌を触れ合わせているかのように伝わってくる。
次元はにわかにざわざわと活発になった自分の神経に苦い顔をした。こんな状況で何を考えているんだ俺は――、しかも商売敵相手に!
自制しようとする理性とは裏腹に、血を失ったぼんやりとした意識はややもすれば銭形の肩に頭を預けようとする。その心地のいい体温に混濁したまま飲み込まれそうになる。それはさぞかし気持ちがいいだろう、と思いながら次元は気力を振り絞って銭形に預けていた体を起こした。
「銭さん、俺を置いていけよ。あんた一人なら簡単に逃げられるだろう」
「バカ言え」
「もとはと言えば俺の問題にアンタを巻き込んじまったわけだし…」
次元は言葉を切ると自嘲の笑みを浮かべた。
「俺はしがない犯罪者だ、ここで死ぬならそれまでの男だっただけのことさ」
回された腕に力が入るのがわかった。
「たとえ誰であろうと俺の前でむざむざ死ぬことは許さん」
次元は驚いたように銭形の顔を見上げた。銭形はまっすぐ前を見つめている。
「……お天道さんみたいな人だなアンタは」
は、と笑いと共に吐き出すと銭形は目を丸くして次元を見た。
「何ポエムってんだ、頭までやられちまったのか」
「褒めてんだよ」
アンタの信念はいつだって正しくて、真っ直ぐで、ブレなくて力強い。まるで太陽みたいだ、と次元は思う。
「……褒めてんのか」
「うん」
次元は慎重な動作で銭形の脇腹に自分の体を寄せた。ぴったりとくっつく身体に銭形の力強い鼓動が伝わってきて、自分が左側にいることに感謝する。……おまけにこんなにポカポカしてるなんて、反則だよな。声に出さず呟く。肌を伝う温い水滴が自分のものなのか銭形のものなのかもわからなくなってきて次元は軽く目を閉じた。
このまま溶けて、雑ざりあいたい。そんなことが思い浮かんで、次元は声を出さずに笑った。
――オイ、寝るな!
そんな言葉がどこかで聞こえた気がしたが、抗うこともできずに次元は意識を手放した。
次に目を覚ました時に次元の目に入ったのは自分に覆いかぶさるように覗き込む銭形の顔だった。雨はいつの間にか上がったようで、肩越しに雲一つなく晴れ渡る空が見える。
「気がついたか」
心配そうな顔にほっと安堵の色が戻る。
「……ここは?」
「俺のジープだ」
結局俺を捨てずにここまで来たのかと驚嘆の眼差しで次元は銭形を見上げる。と、銭形のこめかみから自分の顔の横に何かが落ちてきたことに気付く。顔を横に向けるとヘッドレストが赤く染まっていて、その意味が分かった瞬間に次元はゾッとした。
「銭さん、アンタ、酷い怪我を」
震える声で言うと銭形は何でもないと顔をそむけた。
「また見つかっちまってな。撒くのに一苦労だったが……たいしたことはねえ」
「なんで俺を置いていかなかったんだよ……あんた一人なら、こんなひどい怪我することもなかったはずだ!」
次元は思わず叫ぶ。意識を失った自分が銭形のお荷物だったことなんて誰の目にも明らかだった。
「でも今、二人とも生きているだろう」
感情を抑えきれない様子の次元の顔を両手で挟み、銭形はまっすぐにその眼を見つめる。
「言っただろう、誰であろうと俺の前でむざむざ死ぬことは許さん」
「……!」
銭形の言葉に次元は息を呑んだ。
ああ。
降り注ぐ太陽が眩しくてたまらない。