代償は身を灼く欲情

ガチャン、とドアの閉まる音で俺は我に返った。
耳をそばだてたが、あまりに長く続く沈黙にまさか男を追いかけて行ったのではないか、と不安がよぎる。
と、長い欠伸が聞こえて俺はホッと胸をなでおろした。そうだよ、あいつが追いかけるのはこの俺ただ一人なんだから。子供じみた考えだと知りながら俺は自分にそう言い聞かせずにはいられなかった。



しばらくゴソゴソと何かをしている音が聞こえ、
『う~ん……風呂……面倒くせェなぁ……』
酔いに浮かされたふにゃふにゃとした呟きのあと覚束ない足音が遠ざかり、微かに水音と下手くそな浪曲をうなる銭形の声が受信機から漏れてくるに至って俺はやっとベッドに腰を下ろした。
「ったく、あんな危ねぇヤツほいほい部屋にあげんじゃねぇよ」
とっつあんってば自分のことになると無防備すぎて困っちゃう、などとぼやきながら俺は空になったグラスに酒を注いでそれに口を付けた。琥珀色の液体が舌の上を滑り、鼻腔の奥に樽香が広がる。カッカと熱くなっていた頭が急速に冷え、銭形の部屋の様子にも興味が薄れていく。それでもスイッチをオフにするのはなんとなく躊躇われ、ボリュームを最小に絞った。



二杯、三杯と俺はかなりの急ピッチで酒を煽り、瓶が空になるころにはかなり酔っていた。そう、俺にしては珍しく、酩酊状態だった。いつものように正常な判断が出来ていれば、俺の運命も違うものになっていたに違いない。

――現在の俺を成すすべての経験に後悔は感じていない。
けれど、この夜のことだけは、あのまま眠ってしまっていればどうなっていただろうか、とふと思うことがある。

逆さまに掲げた瓶の口から落ちた最後の一滴を伸ばした舌の上で受けて、俺は再び受信機のボリュームを上げた。
「さてさてとっつあんはなぁにしてるかなっ♪」
ちらりと、メロドラマの登場人物のようにシリアスに部屋を出て行った男のことがよぎる。アイツの知らない銭形のプライベートを、余すことなく盗み聞いてやる。顔も知らない相手に当てつけのような気持ちもあった。それでも内心では大したものが聞こえるとは思っておらず、聞こえて鼾くらいなもんだと思っていた。
「……?」
いきなり耳に飛び込んできた女の声に、何事かと一瞬驚いた俺だが、すぐにテレビの音だと気がついた。それに混じって、時折紙をめくる音が聞こえる。多分これは卓袱台の裏に仕掛けた盗聴器が拾っている音だ。何事にも完璧を求める俺様は、単なる悪戯めいた盗聴にも確実に部屋の主の様子を拾えそうな場所に複数の盗聴器を抜かりなくとりつけたのだった。
風呂に入った銭形は酔いが醒めたらしく、すぐに寝つけずテレビをつけたのかもしれない、と思った。
俺の脳裏に、あのいかにも男の一人暮らしです、という侘しいワンルームで背中を丸めてテレビに向かう銭形の姿が浮かぶ。それはとても哀愁を帯び、涙を誘うものだったのだが、俺はなんだか満ち足りた気分になった。

俺はただぼんやりと受信機から流れる音を聞いていた。テレビから流れるのは深夜にありがちな映画のサウンド。そこに、銭形が卓袱台を指で叩くコツコツという音や呼吸音、雑誌だか書類だか知らないが紙をめくる音が混じる。テレビの音で、流れている映画が自分もよく知ったものだということがわかる。俺は勝手にこの時間を銭形と共有している気分になり、その気怠い心地よさに微睡みかけた。
「ん……、待てよ」
俺はふとあることを思い出して閉じかけた目を開けた。
「確か、この映画ってこの後……」
俺の呟きとほぼ同時に、受信機の向こう側で女の喘ぎ声が響き渡った。そう、この映画はラブシーンが過激なあまりポルノ映画でもないのに年齢制限がつけられているというものだった。
『ぅおっ!?』
多分視線も意識もテレビには向けていなかったのだろう、銭形の驚いた声と紙が落ちるバサバサという音がしてテレビのボリュームが下げられた。その慌てふためいた様子に俺は思わず忍び笑いを漏らした。
『む、ぅ……今時のテレビはこんなものまで放映するのか……』
小さくなった喘ぎ声をBGMに、戸惑うような銭形の呟きが聞こえ、チャンネルを変えるかテレビを切るかするだろうと勝手に思い込んでいた俺は少々拍子抜けした。
まぁ、銭形だって健全な男子だもの、いくら免疫がなさそうだって言っても「エッチなのはいけないと思います!」って反応はないよなァ、と思い直す。今まで俺は仕事をしている時の銭形しか知らなかったので、意外な一面を垣間見た気がして悪い気はしなかった。
銭形は煙草を喫うことにしたらしい。フリント・ホイールを回す音と発火するシュボ、という微かな音の後、ふぅ、と大きく息を吐いた。規則的に続いていた紙を繰る音が止み、テレビから大袈裟なほど扇情的な男女の声だけが流れる状態に耳を傾けていた俺は次第に落ち着かなくなってきた。
銭形の部屋を盗聴しているという事実と、そこから男女のアノ声が聞こえるという事実が、酔った俺の頭の中で見事に化学反応を起こし――、まるで銭形の情事の声を聞いているかのような錯覚に陥らせたのだった。

「……俺、酔っちゃってるなぁ……」
言いながら頭を振り、妙な想像を追いやる。気がつけばラブシーンは終わりアクションシーンに切り替わったようで、緊迫したBGMと銃声、苛立った男の声なんかが漏れ聞こえてきた。
そんな中、銭形が発した言葉は俺の心臓を縮みあがらせるには十分なものだった。
『……こんなモンに反応するたぁ、俺もまだまだ若いなァ』
情けない自分への苦笑いを含んだ、哀しいようで、でも微かに嬉しさも含んだようなその声は、今まで俺が聞いたことがないものだった。
俄かに激しく運動を始めた心臓のせいで、頭にカッと熱が上り、耳の奥でドンドンと響く鼓動がうるさい。俺は震える手でヘッドホンを装着し、プラグをジャックに押し込むとボリュームのつまみを最大にひねった。
『たまにゃこっちも処理してやるか』
俺が盗み聞いていることなど露知らず、銭形はブツブツと呟いている。俺は何も考えられなくなり、ただひたすら戦慄きながら「何、処理って何!?」と繰り返すのみだった。



やだぁっ、まさか、

まさか、

まさか、

ましゃか、ゼニガタさん――ッ!



全神経を耳に集中させ、ぶるぶると震えていた俺の鼓膜に、ゴソゴソという衣擦れの音と、
『――……ん』
銭形の鼻にかかった吐息のような声が届いた瞬間、俺の心臓は爆発した。



別に大したものが聞こえたわけじゃない。
そりゃそうだ、男女の営みでもない、ただの自分より年上の男の自家発電現場である。なのに。
『……っく、』
掠れているくせに妙に艶めいた銭形の声が耳を打ち、俺は小さく身震いした。こんな声、聴いたことがない。俺は生唾をごくりと飲み込んだ。

それは実際にはそう長い間ではなかったのかもしれないが、俺にとっては気の遠くなるような時間だった。耳を塞ぎたくなる衝動と、もっと聴きたいという衝動が交互に込み上げる。
乱れていく呼吸音に時折混じる、抑えきれずに漏れてしまったかのような声や、ささやかな水音が俺のなけなしの理性を粉々に打ち砕いた。
ヘッドフォンに添えていた手を下すと、すでに臨戦状態で張りつめていた股間に触れる。
「っ」
布の上からにも拘らずびりっとくる程の快感に、俺は少し腰を引かせながら目を閉じた。聞こえる水音のリズムに合わせながらスラックス越しに擦りあげる。宿敵である男の一人遊びを盗み聞きながら同じように自分を慰める――、どう考えてもまともな人間のすることではない。解っていながら俺は衝動を止めることが出来なかった。俺が知ってるのとは全然違う、やらしい声を上げる銭形のせいだかんね! 言い聞かせてキツく目を閉じ直すとそこに浮かんだのは涙目の銭形で――それは正しくは俺を取り逃がした時の悔し涙を浮かべた憤怒の形相だったのだが、初めて俺はそんな銭形を可愛い、と思う自分を自覚した。

聞こえる水音の間隔が短くなり、銭形の限界が近いのだと気づいた俺は手を止めた。
『っ、はぁ……』
深いため息の後、柔らかい紙が擦れる音がすると銭形の部屋は静寂に包まれた。その静けさは俺を現実に引き戻すには十分な冷たさで、……何やってんだ俺。しょんぼりとうなだれるとあれほど元気に存在を主張していた体の中心もその力を失いつつあるのが目に入った。
「ホント、何やってんだろな俺……」
全部とっつあんのせいだ、次の仕事ん時に鼻っ柱へし折ってやらないと気が済まない。八つ当たりの勢いで次の仕事の算段を始めた俺はヘッドフォンをつけたままでいることを一瞬忘れていた。

『ルパン――』
不意に聞こえた銭形の声に俺の体はびくんと硬直し、その拍子にぴんと張ったヘッドフォンコードが受信機を引っ張る。あ、と思った時にはもう遅く、受信機は伸ばした手を掠めて落下し、激しい音を立てて床に激突した。
「やっちまった……」
床に散らばった破片や部品を呆然と眺めながら俺はつぶやいた。まったく俺らしからぬ失敗だ。拾い上げ、念のために電源を入れ直し周波数を弄ってみたものの、完全に壊れてしまったようでうんともすんとも言わなかった。
「……もう寝よ」
急激に疲労感が押し寄せて俺はベッドに体を投げ出した。



結局俺は一睡もできずに朝を迎えた。
俺の脳細胞の一つ一つに刻み込まれたあの忌まわしい声や息遣いが絶え間なくリフレインするのだ、眠れるわけがなかった。

――何だってあんな声で俺の名を呼んだ?

頭では正解は解っている、ただのいつもの「儀式」だ。就寝前にやる、「ルパン逮捕」の誓いだ。何事にも律儀な銭形はあんなことの後にもその身に習慣づけられた言動をしただけのことだ、頭では解っている。けれど。
あの快楽の余韻に掠れた声を思い出すたびに頭の芯がジンジンと痺れた。脳裏には銭形が俺の名を呼びながら自分を慰めている姿がよぎり、俺は己の想像力の逞しさを呪った。
そんな幻想によって蓄積される熱を吐き出し吐き出ししているうちに、頭の中の銭形がいやらしい啜り泣きを零しながらこれまた頭の中の自分の首に手を回してすがりついてくるに至って、ようやく俺は銭形に欲情している自分を認めざるを得なかったのだった。
そんなわけで俺は一睡もできなかった。単なる妄想であんなに回数をこなすなんて、思春期にも経験のなかったことで部屋を出る前にのぞいた鏡の中にはげっそりとした顔の自分がいた。



リビングに降りていくと、すでに食卓に着いていた五右エ門が俺の顔を見てギョッとする。
「何があったルパン? ひどい顔をしているぞ」
生返事をしていると、キッチンから顔を出した次元が眉をひそめた。
「お前、まさかアレやってたのか?」
「あれとはなんだ、次元」
「コイツな、銭さんの部屋に盗聴器仕掛けてんだ」
聞いた五右エ門が顔を顰めてこちらを見る。
「やだぁ~、五右エ門ちゃんには言わないでって言ったのにぃ」
しかし俺は怒る元気もなく、力ない抗議の言葉を発するしかなかった。そんな俺の様子に次元は何か気づいたような顔になり、にやりと笑って見せた。
「よっぽど面白いもんが聴けたみてぇだな」
俺はふらつく足取りでソファに身を投げ、未だぼんやりする頭に手を当てた。
「ああ……マジおっとろしいもん聞いちまったぜ……」
両腕で自分の体を抱きしめてぶるっと震える俺を見て次元は目を丸くしたが、いったんキッチンに引っ込むと朝食をのせた皿を持って戻ってきた。
「だぁから言っただろ、悪趣味な悪戯もほどほどにしておけよって」
「次元の言うとおりだ、そもそも人のぷらいばしいを面白半分に侵害するとは言語道断。”好奇心猫をも殺す”と言ってだな……」
「あぁーもう、うるさ~いっっ!!」
グダグダと苦言を呈し始めた二人に俺は耳を塞いだ。

しかしこの後夜な夜なこの時の記憶に悩まされ眠れない日々が続き――、相棒たちの苦言が正しかったと痛感せざるを得なかったのだった。

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