無償の愛

 ――ザァッ。

 木立の間を風が抜ける音がして譲二は立ち止まった。空を振り仰ぐと木漏れ日がまぶしくて顔を顰める。譲二は肩で息をつくと樫の木に寄り掛かった。ここは静かだ。木々のざわめきと風の音が彼の熱くなった頭をゆっくりと冷やしてゆく。

「……馬鹿だな、僕は」
自嘲的な笑みを浮かべて譲二はつぶやいた。『家督を継ぐのはあくまでも宗一だ』と言った宗右衛門の表情を思い出す。そんなのは建前だと思っていた。親としての愛情も与えて欲しかった。だからこそがむしゃらに努力してきた、けれど。
テストで百点をとっても、かけっこで一番になっても。表面だけをなぞるなおざりな褒め言葉。優しい笑みも、暖かな視線も兄だけが独占し自分に向けられることなどなかった。それでもただひたむきに、一縷の望みをかけて東京大学に入り経営学を学んできたというのに――。

 自分がただ、精薄の兄の陰になるためだけの存在として生を受けたと知った時の衝撃を譲二は忘れられない。母だと思い込んでいた人がなぜあんなに冷たかったのかもその時に理解した。理解はしたがだからと言ってそれまでの仕打ちを許せるわけもなく、「認めてほしい」が「見返してやる」になってさらに己を厳しく研鑽することに努めた。大学を卒業し、ホテルグループを任された時は素直に嬉しかったのだ――見返す機会が与えられたことも、両親に認められたような気がしたことも。
だがそれもバブルが崩壊し会社を倒産させてしまったことで儚く散ってしまった。失意のうちにしかたなく宗一たちの高原ホテルに身を寄せた譲二が目の当たりにしたのは――。

 そこだけ、時が止まったかのような穏やかな空気。バブル崩壊による世の中の混乱もまるで無縁のものかのように、優しい笑顔に囲まれる宗一。
親が本当に遺したかったものはコレなのだ、と悟り譲二は足元が崩れるような絶望を味わった。あくまでも自分は、宗一の風よけにすぎなかったのだ、と。それでも彼は傷ついたことをおくびにも出さず高原ホテルの経営に手を貸した。知的障害ゆえか天真爛漫な兄を憎み切ることはできなかったし、精神的に弱い部分や黒い部分を他人に見せることは自尊心が許さなかった。
ここでも譲二はただひたむきで一生懸命だったのだ。そして彼は安宅宗右衛門が残したホテル経営に打ち込むこと以外に自我を保つ方法を知らなかった。

『ここを出ましょう、譲二。私たち、二人だけでもやり直せるわ』
妻の言葉が脳裏をよぎる。従わなかった自分を今更悔やむ。譲二は唇を噛んだ。
ホテルグループを仕切っていた時のやり方でうまくいくわけがなかった。ここでの企画には必ず宗一の存在を考慮する必要があったのだ――。なにが「あなたの特別な日を、特別なホテルで」だ。従業員にコンセプトを得意げに披露した自分を思い出してまた笑う。
「確かに特別な日になりましたよ、兄さん」
些細なことがきっかけでパニックを起こした宗一とめちゃくちゃになった食堂を思ってため息をついた譲二はその息が白くなりかけていることに気付いた。あの後泣きながら謝る宗一と彼をかばう久仁子と大喧嘩をし、そのまま発作的に飛び出してきたのだ。空はゆっくりと薄暗くなってきていた。
戻らなくちゃ。譲二は思った。でも、どこに?
譲二は足元を見つめた。居場所が欲しかった、ずっと求めていた。優しい視線、頭を撫でる温かい手、『家族の一員としての居場所』。そんなに贅沢な望みだったのだろうか。兄はそれら全てを持っていて、――自分にはない。両親の死によって、これからもずっと手にすることが出来ないものになってしまった。そう思い当った時、譲二は吐き気を覚えて口を押さえた。そう、自分が安宅家に求めていたものはもう未来永劫手に入らない。なのになぜ自分はここにそんなに執着する? もういいじゃないか、ここを出ていけばいい。そう考えた瞬間胸の奥からせりあがってきた感情に譲二は嘔吐いた。

 ――――……じ。じょーじ!
口を手の甲で拭った譲二がゆっくりと振り返ると茂みの陰から宗一がよたよたと現れた。追いかけてきたのか、兄さん。声に出さず呟き、譲二は宗一の涙と鼻水で汚れた端正な顔を見つめる。咎めるような視線に宗一は一瞬立ち止まった。
「ごめんなさい、ぼく――」
言葉は続かない。おどおどと視線をさまよわせる宗一に譲二は口元をゆがめた。
「コートくらい着てこいよ、兄さん。風邪でも引いたらみんな心配するだろう」
譲二の言葉に驚いたように宗一は弟の顔を見、顔をくしゃくしゃにしながら彼に歩み寄った。ぶつかるようにその胸に飛び込み、堰を切ったようにしゃくりあげる。
じょーじ、ごめんなさい、じょーじ。たよりないおにーさんでごめんね、じょーじ。せっかくじょーじとみんなでかんがえたきかくをめちゃくちゃにしてしまってごめんなさい……!
子供のようにわぁわぁ泣きながら言い募る宗一に譲二はため息をついた。その頭にそっと手を載せる。
「いいんですよ、兄さん」
責められることを覚悟していた宗一は思いもかけない言葉に目を見開き譲二を見上げる。譲二は無表情に言葉を重ねた。
「……高原ホテルは兄さんのホテルだってことを失念していたよ。僕の独りよがりなやり方じゃダメなんだ」
「……! そんなこと、ないです! じょーじ、かしこいこと、みんなしってます! きょうだってぼくがしっぱいしなければ……」
譲二は兄の唇を指先で押さえた。細心の注意を払いながらゆっくりと微笑みを作る。
「僕はここを出ていくよ」
宗一の顔が再びくしゃりとゆがんだ。譲二の胸に置かれた手が満身の力を込めてコートの生地を掴む。なんで? なんで出ていくなんて言うの? いやだ、いやだ――! わめきながら宗一は譲二の体を揺さぶった。よろけながら譲二はどこか冷めた頭でコートがしわになっちまうよ、などと考える。

「落ち着いたかい、兄さん」
しばらくなすがままになっていた譲二は宗一の言葉が途切れるのを待ってゆっくりと彼を自分から引きはがした。宗一はうつむいたまま、嗚咽が漏れないようこらえているらしいがそれでも時折肩が大きく揺れている。譲二は自分のコートを脱ぐとその肩にかけてやった。
宗一ははじかれたように顔を上げ、涙で濡れた真っ赤な目で譲二を見つめる。
「じょーじ、出ていく、いやです!」
頑なまでにまっすぐな宗一の言葉。譲二は無感情に真っ赤に染めあがった兄の耳を見ていた。だが宗一の次の言葉は譲二の冷えた感情に衝撃を与えた。
「ぼ、ぼく、ばかだけど、いっしょうけんめいじょーじをたすけます! くにちゃんいいました、ひとはこころをささえるものがないといきていけないと。ぼくがじょーじをささえます、ぼくがじょーじのこころのつえになります! だめですか、じょーじ、ぼくじゃだめですか……!」
ぼろぼろと涙をこぼす宗一を見た譲二の心の中で何かがプツリと音を立てて切れた。目頭が熱くなり、あふれ出たもので視界がぼやける。がっくりと膝をついた譲二に宗一はあわてて駆け寄った。
「じょーじ、ないてるの、どこかいたいですか?」
宗一の気遣わしげな言葉に譲二は泣きながら笑う。痛いといえば痛い、胸がこんなにも。『お前は無償の愛の人になれ』父がいつか言った言葉を思い出す。母だと思っていた人が自分にだけ冷たいことを相談した時の言葉だった。愛を求めるな、愛を欲するな。黙って兄を守ることだけ考え、行動していれば自ずと与えられる時が来るだろう、そう言った父。幼い譲二はもちろん納得することなどできなかった、だけど。無償の愛はこんなにもすぐ傍にあった――譲二は覗き込む宗一を抱き寄せた。驚きの声を上げながら無垢な兄は譲二の腕の中に倒れ込む。

 愛しています、兄さん。

 譲二は心の中でつぶやいた。そして両親のことを考え、口の端を上げて笑う。宗一を庇護するためだけの存在として自分を産み育てた彼らの思惑は外れ、宗一が自ら自分を支えることを望んだということ。ただの言い回しにすぎないとしても、自分の「杖」になることを望んだということが譲二の心に仄暗い満足感を与えた。

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