パパの休日

 崖の上の家を夕日が染める頃。チャイムの音にドアを開けた耕一の目に飛び込んできたのはまず、鮮やかな緋色だった。
「フジモト……さん?」
驚いて名を呼ぶとフジモトにとっても出てきた人物が予想外だったのだろう、大きな目がさらに見開かれている。一瞬の沈黙の後、背筋をぴんと伸ばしたフジモトはつぶやくように告げた。
「ポニョに、会いに来たんですが」
――ああ! 合点がいった耕一は微笑んだ。息子に出会って魚から人間になった女の子。魔法を捨ててこの家で暮らし始めたものの、父であるフジモトが時折様子を見に来るということはリサから聞いていた。ドアを押し開き、身振りで家の中に招き入れる。鼻先すれすれを通り過ぎる真っ赤な髪に耕一は目を細めた。ポニョも髪を伸ばせばいいのに、などと思う。

 リビングに通されたフジモトは言い知れない居心地の悪さを感じていた。元々人嫌いなところに合わせて、ほとんど言葉を交わしたことがない耕一という相手。中に入ってポニョたちがいれば――という希望とは裏腹に、そこは無人だった。
「あ、ソファー座っててくださいね、お茶でいいですか?」
なぜかいそいそとキッチンへ向かう耕一の背中に目もくれずフジモトはまっすぐ虚空を見据えて突っ立っていた。
「あの、――ポニョは」
フジモトの声に耕一はひょいとキッチンから顔を出した。
「すみません、今夜リサがひまわりの家にお泊りで。子供たちも連れて行ったんですよ」
フジモトの眉間にしわがよる。
「そうですか、ではまた出直します」
身をひるがえしたフジモトに耕一はあわててキッチンから出てきた。
「そんなぁ、いいじゃないですか。俺、フジモトさんとお話ししてみたかったんですよね」
フジモトの眉間のしわがますます深くなる。何を話すというのだこの男は。ズケズケものを言うリサも苦手だが、この男も人の好さそうな笑顔の下で何を考えているのかつかめなくて……嫌いだ。
「いえ、とにかく今日は帰ります」
リビングを出ようとしたフジモトの腕を耕一はとっさに掴んだ。フジモトの肩が跳ね上がり、耕一の手が振り払われる。互いに相手の行為に驚いたような視線がぶつかり、気まずい空気が流れた。
「失礼しました、でも、あの」
申し訳なさそうに目を伏せて腕をさするフジモトに耕一は笑った。
「初めて目が合いましたね」
かみ合わない会話にフジモトは思わずまた相手の顔を見る。
「大事なお子さんをお預かりしてる身としては親御さんとも話をしたいと思ってたんですよ」
耕一の言葉にフジモトはぐっと言葉を詰まらせる。子供のことを出されると弱い。
「それにここ数日のポニョのことなら俺でも話せますしね」
おどけてウィンクする耕一に顔をひきつらせながらフジモトはあきらめの溜息をついた。

 所在無げにソファーに座るフジモトを尻目に耕一は再びキッチンでごそごそやりながら話し続ける。
「俺、船乗ってるんでなかなか家に帰ってこれないんですよ。たまたま今休暇で帰ってきてたんですけどもうすぐそれも終わるんでリサが一日くらい一人でゆっくりしてろって」
よく喋る男だ、とフジモトは思う。だが沈黙が続いたり自分が喋ることを強要されるよりはましだった。
「子供は可愛いけど、相手するのも体力使うからって。でもなんか独りの一日って案外長いし」
キッチンから出てきた耕一の手にはなぜかビール瓶とグラスが二つ。それをローテーブルに置きながら。
「晩酌相手がいないのも寂しいなって思ってたんで」
きょとんとしたフジモトの前にグラスを滑らせる。ちょっと早いけどまぁいいですよね、といいながらどっかりと向かいのソファーに座った耕一をフジモトはおぞましいものを見るような目で見る。
「な、何を考えているんだあなたは」
「あれ、アルコールダメでしたか?」
いやそんなことは――フジモトは言い澱んだ。
人間だったころには人並みに酒をたしなんだ。だが海の眷属となってからはそんな世俗的な楽しみは捨ててしまっていたのだ。耕一はフジモトの言葉の続きを待ちながらビール瓶の栓を抜き、自分のグラスにビールを注ぐ。久方ぶりのアルコールの香りにフジモトは思わずごくりと喉を鳴らした。
「それに酒が入ったほうが話しやすいでしょ。これでも緊張してるんですよ俺も」
耕一の言葉に後押しされてフジモトは一瞬の躊躇いの後、おずおずとグラスに手を伸ばしたのだった。

 一時間以上経過した頃、ほろ酔いになった二人はだいぶ饒舌になっていた。テーブルには空になったビール瓶が数本転がっている。
「ですからポニョは、私とあの人の大切な娘なんです。なのに……。」
耕一はニコニコしながら空になった自分のグラスにウィスキーを注いでいる。
フジモトはわずかに残ったビールをグイッと飲み干すとテーブルに突っ伏した。
「なのに、人間の男の子なんかにこ、恋をして……っ。あろうことか人間になることを選ぶなんてっ」
飲み始めてしばらくは乞われるままにポニョの様子を報告していた耕一だったが、短い休暇のほんの数日分の情報では会話は長くは続かなかった。黙って酒を酌み交わしているうちにどちらからともなく妻への惚気・親バカ披露合戦になっていったのだった。
フジモトさん、だいぶ酔ってるな。突っ伏したままグラスを握りしめ肩を震わせる男を見ながら耕一はウィスキーを掻き雑ぜた指をなめた。
「でもポニョは人を見る目がありますよ。なんてったって宗介を選んだんだからなぁ」
耕一の言葉にフジモトがわずかに頭を上げる。
「……すまない、宗介くんを悪く言うつもりは……ないんだ」
「わかってますよ」
耕一はこともなげに言うとウィスキーを飲み干し、そろそろ日本酒かな、などと考える。その刹那リサの「飲みすぎないでよ」という恐い顔が脳裏をよぎり苦笑した。
「まぁ頑固な家族を持つと苦労しますよね」
リサはもちろん宗介も自分がこうと決めたら決してそれを曲げない。そんなまっすぐな気質を愛しながらもそれに手を焼いたことがあるのも事実だった。ポニョも同じような性格なんだろう。フジモトは力なく項垂れる。
「そうなんです……ポニョは、あの子は、この父がどんなに大切に思っているか解っていない……!」
悲痛な声に耕一は微笑んだ。
「大丈夫、ポニョはまだ子供だ。もう少し成長すればあなたの愛に気がつくでしょうよ」
フジモトははっとしたように耕一を見た。と、彼がずっと自分を見ていたらしいことに気づき、潤んだ眼もとがますます赤くなる。耕一の背後の開け放たれた窓からは青白い月が見えた。

 ――そうでしょうか、消え入るような声で呟いてフジモトはゆっくりと耕一から視線を外す。いかん、飲み過ぎた。フジモトはいまさら自分の全身がかっかと熱くなっていることを知る。
「うん、大丈夫。綺麗だろうなぁー大人になったポニョ」
「なっ」
耕一のあっけらかんとした言葉にフジモトの髪がぶわっと広がった。
「何を言うんだあなたは……っ。まさか、ポニョをそんな目で見て……!?」
わなわなと震えながら自分を睨み付ける丸く蒼い瞳を耕一はじっと見返す。緩慢な動作で立ち上がり、びくりと身を竦めるフジモトを見下ろした。
「まさか、息子のガールフレンドですよ。……それに俺、女はリサにしか興味ないから。フジモトさん、次日本酒いきますか? それともビール?」
「いや、わたしはもう」
フジモトは反射的にグラスの口を掌で塞ぐ。頷いてキッチンに向かう耕一の背中を見ながら何か引っかかりを感じたがそれが何なのかアルコールでぼやけた頭では解らなかった。それどころか酔っている、と自覚した途端に視界が揺れ始め、彼は頭を抱えた。

 床が軋む音が近づいてきて耕一が戻ってきたことを察知する。それでもフジモトは顔を上げられなかった。
「ただ俺は思っただけですよ。大人になったポニョはあなたに似てとても綺麗だろうなってね」
その言葉に緋色の髪の陰でフジモトの目が見開かれる。なぜか解らないが何かまずい気がする。すぐ近くに耕一が立っている気配を感じ、フジモトはギュッと目を瞑ると早く向かいのソファーに戻れ、と念じた。しかしそんな彼の願いもむなしく、微かにスプリングの軋む音とともに体がほんの少し左に傾いて、耕一が自分の隣に腰かけたことを悟る。
俯いたままのフジモトの顔に玉のような汗がにじみ始めた。知ってか知らずか、耕一はそんな彼の前に水の入ったグラスを置き、ゆっくりとフジモトの方に手を伸ばした。
――何をするつもりなんだこの男は。
逃げ出したい、その気持ちと裏腹にフジモトは動けなかった。その頭に耕一の大きな手が優しく置かれる。どう反応すればいいものか。予想もできなかった相手の行動にフジモトは、自身の鼻筋を伝った汗が床に落ちて丸い染みを作っていくのをただ見つめていた。
やがて耕一の手はそっと動き出し、フジモトの髪を撫で始めた。最初こそおずおずといったふうだったものの、すぐにその動きは大胆になる。耕一はその美しく豊かな髪に指を梳き入れた。サラサラと指の間をこぼれる髪の毛の感触を楽しみながらフジモトの反応を注意深く観察する。耳の後ろの髪をすくった時にフジモトが微かに身動ぎしたのを見逃さず、何度もその辺の髪を梳く。繊細で絹糸のような髪の毛の手触りはとても気持ちがよかった。
一方フジモトは身を硬くしたままこの状況について考えていた。いったい自分の身に何が起こっているのか。そもそもわたしはポニョに会いに来たのであって――なんでこんなことになっているのだろうか? だがいくら考えてもアルコールとこの状況に混乱した頭はフジモトに明確な答えを与えてはくれなかった。しかしこれは……これじゃまるで、

『      』

ある単語がフジモトの頭に浮かびあがった瞬間に彼は跳ね上がるように体を起こした。耕一が行き場のない手を挙げたまま驚いた顔で彼を見る。
「や、やめてください。こんな、まるで、」
愛撫のような――という言葉を飲み込んでフジモトは髪を押さえた。耕一は困ったように自分の頭を掻く。
「ごめんなさい、髪触られるの嫌でした? 綺麗だなって思ってたんでつい……」
屈託のない笑顔を向けられてフジモトの心臓は締め上げられた。自意識過剰だったのかと恥ずかしさも感じる。だが次の言葉に耳を疑った。
「もうちょっと触ってもいいですか?」
信じられない、という顔で目を見開いているフジモトに気付いているのかいないのか、耕一はまったく変わらない笑顔をこちらに向けていた。フジモトはじりじりと後退り、ソファーの反対側の肘掛けに背中が当たって我に返る。
「イヤです。……酔ってるんでしょう、あんた」
「酔ってないですよ。ダメですか?」
キッとした表情で首を横に振るフジモトを見て耕一は真顔になった。しばらく思案していたが、何かを思いついたようにぱっと顔が明るくなる。
「じゃぁいいですよ、ポニョに触らせてもらいます! 多分同じ髪質だろうし、気持ちいいだろーなぁ」
フジモトはあんぐりと口を開けた。
「い、今の――今みたいな触り方を?」
耕一は子供のようにこくんと頷く。
「ポニョに?」
またこくん。
フジモトは思わず立ち上がった。ガタン、とテーブルが揺れビール瓶が一本転がり落ちる。
「ダメ、ダメダメ! ダメです、絶対に!」
初めて聞くフジモトの大声に耕一は目を丸くした。そしてにっこりと笑う。
「フジモトさんが触らせてくれるんならポニョには触りませんよ?」
フジモトは呆然とした。この男、人畜無害のような顔をして実はかなりの策略家なんじゃないのか。そんな心の内を知る由もなく耕一は自分の傍の座面をポンポンと叩きフジモトに座ることを促す。
「――髪を触るだけですよ?」
耕一に念を押しながら渋々とフジモトは座りなおした。耕一は心底から嬉しそうな顔でへらっと笑う。やっぱり酔ってるんじゃないか。フジモトは恨めしい気持ちでその顔を眺め、意を決したように眉根を寄せると耕一に背を向けた。指先でその髪に触れると、びくんとフジモトの肩が揺れ、敏感な人だなぁと耕一は思う。そしておもむろに指を髪に差し込んだ。

 ――どのくらいそうしていたのか。
髪を撫でられるのは存外心地が良いものだと気づき始めたフジモトは時間の経過を推し計る気もなくなっていた。ただ、酔いも手伝って微睡みかけてはその手が無骨な30男のものだということを思い出して我に返る、という状態を繰り返していた。
しかしそれもほんの数分前までのことだった。酔い気と眠気が混ざり合い緩みかけていたフジモトの体が今は再び石のように固くなっている。「髪を触るだけ」だったはずの耕一の指先がふとした拍子に首筋をかすめたのだ。その瞬間、油断しきっていたフジモトは思わず息を呑んだ。動揺は耕一にも伝わったはずなのに、彼は何も言わなかったのでフジモトは偶然か、何かの間違いだと思い込んだ。実際、それからしばらくは耕一は髪の毛にしか触れなかったのだ。それでも一度こわばった体はなかなか緊張を解くことが出来なかった。
そんなフジモトの背後でとくとくと液体がグラスに注がれる音がする。まだ飲んでるのか、と半ば呆れたその時、耕一の指が今度は耳の後ろ辺りをくすぐるようにかすめて。
「――っあ……」
思わず漏れた自分の声の艶めかしさにフジモトは真っ赤になって口を押さえた。そのままぎこちなく耕一の方に振り返る。きょとんとした顔の彼に、ますます頬が熱くなる。
「あ、あの、指があたって…」
絞り出すような声で言うフジモトを見て耕一は微笑んだ。そしてグイッと自分の顔を相手の顔に近づける。フジモトの高い鼻先を耕一の唇が掠め、思わず目を閉じたその耳元に耕一はささやいた。
「あててるんですよ」
熱い息が耳をくすぐり、熱のこもった声が鼓膜を打つ。
まずい、ものすごくまずい。硬直したままフジモトはただそれだけを頭の中で繰り返す。この男がこれからいったい何をする気なのか、考えたくもない。やっぱり帰ればよかった……! そう思った時、耕一が離れる気配がした。おそるおそる目を開けるとほんのり上気した笑顔が視界に飛び込んでくる。
「フジモトさん、俺――」
その続きは聞きたくない、でも聞きたい。フジモトは自分の矛盾に気づきめまいを覚えた。だがしかし彼の希望がどちらのものだとしても結局彼は続きを聞くことはできなかったのだ――耕一の体はゆっくりと傾き、テーブルの上のものをなぎ倒しながら床の上にひっくりかえった。笑顔のままフェードアウトしていった耕一に何が起こったのか理解できず、フジモトは腰を浮かす。
「大丈夫、ですか……?」
声をかけるとなしに呟いたフジモトへの返事は能天気で大きないびきだった。フジモトは泣きそうな表情になりながらへなへなと崩れ落ちる。やっぱりこの男もかなり酔っていのだと悟り、フジモトは安堵の息をついた。そして緊張の糸が切れると自分も激しい睡魔に襲われ――いつしか眠りに落ちていったのだった。



 朝が来て帰ってきたリサがリビングの惨状を目の当たりにし二人に大きな雷を落としたのはまた別のお話。

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