タン……――タン……――タン……――タン……――
夏の夜のことだった。少女――由香子は自分の部屋で机に向かって夏休みの宿題をこなしていた。
「ふぅ……今日の分はこれでお終い」
呟きながらノートを閉じて彼女は思い切り伸びをした。集中が途切れて散漫になった注意力が周囲の状況に向けられる。
ふと由香子は身震いした。真夏だというのにこの寒さは何?
それに、かすかに聞こえてくるあのメトロノームのように規則正しい音が由香子には耳障りだった。
音から逃げるように目を瞑り、首を振る。無駄だった。視界が閉じられると音が大きくなるような気さえする。
由香子は耳を塞いだが、手を離せばまた聞こえてくることを悟り眉をしかめた。
タン……――タン……――タン……――タン……――
音は窓の外から聞こえてくる。音の正体を確かめよう、と思いついて初めて由香子は自分が怯えていることに気づいた。体が、強張っている。
気づいたときには「かすか」だった音はゆっくりと近づいて来ているような気さえして、彼女は再び身震いした。
「なんにも、怖いことなんか、ない!」
由香子は自分に喝を入れようと少し大きな声でゆっくりと言い、勢いよく立ち上がった。反動で椅子が倒れかけ、あわてて背もたれを掴む。
――なんにも、怖いことなんか、ない。
椅子が倒れかけて焦ったおかげで、少し恐怖心が和らいだ彼女はそれでも恐る恐る窓に近づいた。
涼をとるために開け放した窓の外は不自然なほど真っ暗で静かだった。
壊れ物に触れるかのように窓の桟に手をかけ、目を凝らす。相変わらず音は聞こえていたが、彼女の目には何も映らなかった。
「なんだ、やっぱり、なにもない」
怯えを拭い去るためにわざとらしく声に出す。そして不安の元を根絶しようと考えた彼女は一瞬迷ったあとに窓の外へ身を乗り出した。
少し緊張しながらもぐるっと首を回して可能な限り見えるものを探す。静寂に包まれた闇はそんな由香子を嘲笑うかのように何の変化も見せなかった。
「なーんにもないじゃん。怖がりゆかこ」
ホッとして呟き、身を引こうと視線を落としたとき。
――由香子は見てしまった。
家の壁を這い登り、今や自分の部屋の窓の真下に到達してきている黒い影を、濡れた髪の隙間から覗くでろりと濁った眼を。
あの規則正しい音は、黒い影から滴るしずくが奏でる音だった。
気づいた瞬間由香子の喉が変な音を立て、眼球が裏返った。遠のく意識の中で由香子は声を聞いた気がした。
「夜の掟を破った。夜の掟を破った。そのまま怯えていればよかったものを」
それは妙な節をつけた、どこか嬉しげで楽しげな声だった。