3

 卓袱台に突っ伏している銭形の背中を朝の陽ざしが柔らかく照らす。目覚ましが鳴るかならないかのタイミングでパッと目を開いた彼は一瞬ぼんやりとした顔をしたがすぐに跳ね起きた。
「ルパ……っ!」
卓袱台に広げていた書類が音を立てて崩れ落ちる。銭形は呆然と部屋を見渡した。部屋には自分以外の人間の気配はなく、警察官特有の注意深さを以て観察しても『誰かがいた』痕跡を見つけることはできなかった。
「本当に……夢、だったのか?」
我知らず口をつく言葉。埃をかぶった姿見にぼんやりと映る自分を確かめる。ワイシャツもスラックスもきちんと着ており、多少しわになってはいるものの寝乱れの範疇だった。

 けれど、あまりにも生々しい――銭形は一人赤面する。あれが夢だというのなら、俺はいったい何を望んでいるというのだろう。深層心理の表れだ、といったルパンの言葉を思い出す。
「ルパン……お前、本当に死んじまったのか」
項垂れてつぶやけば空虚な部屋に意外なほど大きく響き、言葉はとげを持って彼の心を締め付けた。指の節が白くなるほど握りしめられたこぶしの上に、ぽたりと滴が一粒落ちた。

 十数日後。
「――部。警部」
 男の声に銭形は現実に引き戻された。ああ、ここは職場だった、と銭形は目の前に立つ男を見上げる。彼の新しい部下は幾分緊張した面持ちで銭形を見つめていた。
「顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」
銭形は曖昧に頷いた。実際のところ――彼は疲れていた。
というのもあの夜から毎晩のようにルパンが夢に出てくるのだ。『夢を見る』くらいだから眠ってはいるのだろうが、朝にはぐったりと気怠い体を起こすのに苦労するくらいだった。

 ルパンを追っていた頃は徹夜が続いてもこんなに疲れることはなかったが……俺も年を取ったもんだ。

 ふとそんな気持ちになり、またそんな弱気な自分が不愉快で銭形は眉根を寄せる。険しい表情になった彼を見て部下はおずおずと書類を差し出した。
「大山の窃盗事件の調書です」
「ふむ」
受け取ってパラパラとページをめくるが、身体的な怠さのためかぼんやりと霞がかかったような頭には内容を入れるのは難儀だった。今までの自分ならそういうこ とはほとんどなく――、あったとしても仕事だと思えば瞬時に気持ちを切り替え、心身ともに奮い立たせることが出来ていたのに、今の自分ときたら何という体 たらくだ。
銭形が深いため息をつくと部下はびくりと体を震わせ、その拍子に手の甲がデスクのふちにあたって鈍い音を立てた。その音と振動に銭形は男がまだ自分の前に立っていたことを初めて知ったように視線を上げる。
「まだ何かあるのか」
「いっいいえ」
「そんなら自分の仕事に戻れ」
 銭形が自分を追い払うように手を振るのを見て男は何か言いたげに口を開いた。が、上司が再び書類に目を落としたのを見てあきらめたように立ち去った。

 夜が怖い。
  そんな言葉が脳裏をよぎり、銭形は思わず額に手を当てる。馬鹿馬鹿しい、ガキじゃあるまいし――そう思うものの、夕闇が迫る窓の外を見ると気分がどんよりと落ち込むのだった。いっそのこと眠らなければよい、そう考え実行もしたのだが、不可思議にも抗いがたい眠気が銭形を襲いその試みが成功することはなかった。

 冷たい指先が銭形の肌の上を滑る。うっすらと目を開けるとぼんやりと見慣れたモンキー面が見えた。
「こぉ~んばんは」
にんまりと笑み囁いてくるルパンに銭形は眉根を寄せた。
「俺は峰不二子じゃねえぞ」
言いながら胸元を這い回る手を掴む。ルパンは傷ついたような顔をして銭形から離れた。この男――、夢に出てくるルパンは銭形が彼を拒むような言動をすると決 まってこんな表情をするのだった。追うものと追われるものという関係だったころには見たことのない表情で、その顔を見ると銭形の胸は微かに痛んだ。
「しっかしとっつあん、毎晩毎晩よく呑むネ。ちったぁ節制しないと体壊すよ?」
ルパンは背後の卓袱台を振り返り苦笑する。その上には空になったビール瓶と吸殻が山盛りのままの灰皿が乱雑に放置されていた。体を起こしかけた銭形はその言葉を聞き、苦虫を噛み潰したような顔で寝返りを打ちルパンに背を向ける。
「誰のせいだと思っとるんだ」
部下が聞けば震え上がるほどの不機嫌な声も、ルパンにはどこ吹く風だった。それどころかかえって嬉しそうな顔をして銭形を覗き込む。
「誰のせいだっていうのさ?」
愉快そうなルパンの声に銭形は答えず頭まで布団を引き上げた。余計なことを言ってしまった、と思っていた。まるで俺がルパンのせいで飲んだくれているみてぇじゃないか。……まぁ実際そうなのだが、そんなことは自分の内にだけしまっておくべきことだった。
ルパンはそっと布団のふちに手をかけ、ゆっくり引き下げていく。銭形の真っ赤になった耳が見え、ますます笑みを濃くした。その耳に唇を寄せて。
「ねぇ? だ・れ・の・せ・い・な・の」
わざとらしく囁けば銭形の肩がびくんと揺れた。それでも無言を決め込む銭形に、ルパンはにんまり笑いながらさらに布団を持ち上げると自らの体を滑り込ませた。銭形のうなじに鼻先をすりつけると、彼はほんの気持ち程度布団の端に体を動かした。
「俺のスペース開けてくれるなんて優しいじゃないの、とっつあん」
「お前の体は冷たくてかなわん」
「とっつあんの体は、あったかいね」
ふて腐れたような銭形の声にルパンはくすくすと笑い、腕を回して広い背中に顔を埋め彼を抱きすくめた。一瞬体を硬くする銭形だが、浅いため息とともにゆっくりと緊張を解く。そんな反応にルパンは面白くなさそうに口をとがらせた。
「ずいぶん余裕ぶっちゃってまぁ」
「そりゃここ最近ずっとお前とその、……なんだ、あの……してる、からな」
「そこ照れちゃうんだ、かっわいいの」
銭形は舌打ちしたが、寝間着の胸元から侵入してきたルパンの手をとがめることはしなかった。

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