夜を分けあう

残業を終えた銭形は、くたびれたコートの襟を立て、冷えた夜気の中を足早に歩いていた。
表通りのネオンはまだ眩しく瞬いているが、一本裏に入れば人通りはまばらで、さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。

路地の角に、まだ店を閉めきらずにいる立ち飲み屋があった。
赤提灯の灯が、湿ったアスファルトを赤く染め、店の奥からは演歌の古いレコードが途切れ途切れに漏れ聞こえる。
その明かりだけが、夜の街の片隅に人の気配を繋ぎとめていた。
一杯ひっかけて帰るのも悪くない――銭形はそんなことをぼんやりと考える。

その時だった。
――声がした。

立ち止まった銭形は、反射的に耳を澄ませる。車の走行音、遠くの信号機の電子音、風に揺れる看板の軋む音――それらの隙間に、確かに「何か」が混じっていた。

音の方へと目を向ける。
細い路地。街灯の光も届かぬ闇の裂け目。

そこに、男が立っていた。

黒いスーツを身にまとい、夜の闇に溶け込むように佇むその姿は、まるで影そのものが人の形を取ったかのようだった。
俯いた男の表情は帽子のつばに遮られ見えない。だが、その足元にもうひとり――ぐったりと倒れた男の姿があった。先ほど聞こえた「声」はその倒れた男が漏らす呻きだったのだ。

職業的な勘が静かに胸の奥で警鐘を鳴らした。手錠の重みを確かめ、銭形は闇の中へ踏み込む。
「……次元」
押し殺した硬い声はそれでも夜の静寂を震わせるには十分だった。男――、次元はパッと顔を上げ銭形の姿を認めると肩をすくめた。
「よぉ、こんな時間まで仕事かい? ご苦労さんなこって」
状況にそぐわない気安い口ぶりに、銭形の眉間のしわが深くなる。警戒を解かぬまま、もう一歩、路地の奥へにじり寄る。
「……何をしている」
ポケットに手を入れ、手錠を取り出そうとする銭形の様子に次元は軽く両手を掲げて見せた。
「何もしてねぇよ。強いて言えば――正当防衛、だ」
銭形の片眉がわずかに動いた。逸らされない視線の強さに次元は困ったように頭を掻くと、倒れている男の脇腹を革靴のつま先で乱雑に小突いた。男の口から短い呻きが漏れたあと、荒い呼吸と悪態が続く。思ったより元気そうだ――銭形の脳裏をそんな感想がかすめた。
「ほら、サツの旦那がお前に聞きたいことがあるんだとよ」
次元の言葉に男は弾かれたように体を起こした。大きく開いた襟元から、刺青がのぞく。なるほど、堅気じゃない。
慌てて目線を上げた男は、近づいてくる銭形を見るなり必死の形相で立ち上がった。そして次の瞬間、路地を飛び出しざまに銭形の肩を押しのける。
「覚えてろッ」
銭形は、夜の通りへ駆け出していく男を呆気にとられて見送った。
「もう忘れたよ」
路地から出てきた次元が、煙草をくわえながら笑い交じりにつぶやいた。

「……で? お前はこんなところで何をしていた」
振り返った銭形は次元をひたと見据える。その視線を避けるように帽子のつばを下げ、次元は煙草に火をつけた。
「そんな怖い顔すんなよ、銭形。今の俺は一杯やれるところを探しているだけの――善良な市民だぜ」
言いながらジャケットの裾を軽く跳ね上げて見せる。銃を持っていないことを示しているつもりらしい。銭形の表情が幾分和らいだ。
「何が善良な市民だ、この悪ガキが」
「悪ガキ? ふふ、悪ガキ、ねぇ。俺をそんな風に呼ぶのはアンタくらいだ」
ルパン三世の相棒、そして射撃の名手として知られている次元は裏社会では上層に位置する存在だった。正体を知って畏怖や憧れの目で見られることはあれど、こんなぞんざいな口を利く人間は仲間や、よほど旧知の間柄しかいない。
まぁ銭形も旧知の仲ではある――そう思い当たって次元は妙に愉快な気分になった。
「何をニヤニヤしとる、」
銭形の怪訝な言葉は、半ば体当たりのように次元が肩を組んできたことによって遮られた。たたらを踏む銭形の鼻腔を、次元がくゆらす煙草の香りがくすぐる。
「アンタも飲み屋を探してたんだろ? ご相伴にあずかってやろうじゃねぇか」
「馬鹿野郎、お前と入れる店なんぞないわ」
眉をしかめる銭形の四角張った顔の前に次元は自分の右手を掲げて見せた。
「俺はいい場所知ってるぜ」
ジャラリと鳴る金属音とともに目の前で揺れるキーホルダーに銭形は目を見張った。思わず胸元を押さえる。内隠しに入れていたはずの自宅の鍵の感触が、ない。取り返そうと手を伸ばすとひらりと交わされた。
「き、貴様っ……!」
声を張り上げた瞬間、どこかで野犬の遠吠えが応じた。次元は一歩飛び退くと人差し指を唇の前に立てて見せた。
「デカい声出すなよとっつあん。俺といるところを見られちゃ不都合なんだろ? 俺は別に構わねぇけどな、俺は」
銭形は「ぐ」と喉を鳴らし、返す言葉を失う。次元の口角が、ゆっくりと上がった。
「どうせいつも手酌酒だろ。たまにゃ相手がいるのも悪くないぜ。それにアンタが知りたい情報も――持ってるかもな」
飄々と言う次元に銭形の肩の力が抜ける。
「そんなもん持ってたって言う気はねぇだろうが」
不満げに言いながらも銭形の足は自宅の方角に向けられる。職務上の立場を思えば許されることではない――それは、解っている。だが今夜は、一人酒には寒すぎた。歩き始めた銭形のあとを、次元は静かについてゆく。



階段を上がるたび、古い木の踏み板が軋んだ。薄汚れた壁に貼られた郵便受けの名前札は、どれも色褪せている。昭和の残り香がしみついたアパートの一角、銭形は自分の部屋の前で立ち止まった。少し遅れて次元が影のように並び立つ。
「鍵」
ぶっきらぼうに言い捨てて差し出された銭形の掌に、次元は指に遊ばせていたキーホルダーを落とした。面白くなさそうに鼻を鳴らした銭形は次元のほうを一瞥もせず、鍵穴にさした鍵を回すとドアを開ける。
「……入れよ」
僅かに強張る声は、迷いの発露か。次元は黙って銭形の背中を叩き、中途半端に開いたドアをすり抜けるように部屋に入った。耳障りな金属音を立てて扉が閉じると、微かに差し込んでいた外廊下の覚束ない明りさえなくなり室内は暗闇に閉ざされた。
「早く上がれ」
動かない次元に焦れたように銭形は苛立ちを滲ませた。
「いや、暗いんだって。あと狭い」
独身用の安アパートの玄関の土間は、大の男二人が立つには狭い。靴を脱ごうと屈むと腿に銭形の体が触れるのが解るくらいだ。次元の文句に銭形がどうにか体をずらす気配がし、代わりにコートの裾が尻のあたりにかかって次元は苦笑する。まるで気の置けない友達のような会話は悪くない気分だった。
「悪い、今電気つける」
銭形は壁をまさぐりスイッチを押す。短い蛍光灯が二、三度明滅して点いた。弱い光にもかかわらず、部屋の奥までうっすらと見渡せる。
「明るくはなったがやっぱり狭いな」
靴を脱ぎながら軽口をたたく次元に銭形は渋い顔をした。一味が普段使いにしているアジトには館や城と言っても差し支えない豪邸も少なくないことを知っているからだ。
「起きて半畳寝て一畳ってな、十分だ。気に入らないなら帰るか」
「ここまで来てそれはねぇよ」
次元はすたすたと部屋の奥に進み、吊るされた電灯の紐を引いた。電灯の笠が揺れ、室内が明るくなる。
「な。アンタの言う通り十分……どころか六畳はあるんじゃねえか? 広い広い」
馬鹿にしてんのか、という言葉は我が物顔でどっかりと座り込んだ次元の様子に毒気を向かれて銭形の口の中で崩れて消えた。雑に脱ぎ散らかされていた次元の靴を足で寄せると自分も靴を脱ぎ部屋に上がる。コートとジャケットを鴨居にぶら下げていたハンガーにかけ、ネクタイを外す。襟元から冷気が忍び込んできて銭形は小さく震えた。灯油ストーブのダイヤルを捻るとしばらくしてオレンジの灯がともる。そのまま台所に向かい、流しの下から片手鍋と一升瓶を取り出す。
「もう少しすりゃ部屋も温まるだろう」
銭形はそう独り言ちながら水を張った鍋をストーブに、一升瓶をちゃぶ台に載せた。食器棚から徳利と――、ほんの少しの逡巡のあと、お猪口を二つ取り出した。
「安い酒だからな。お前の口に合うかはわからんが」
言葉とともに目の前に置かれたお猪口に次元は一瞬驚いた。だが、取られてなるものかと言わんばかりに素早くお猪口を引き寄せる。
「ありがたくいただくよ」
口元に浮かんだ笑みにいつもの皮肉めいた色はなく、稚気さえ混じるようなその仕草に銭形の内に残っていた欠片のような警戒心はとうとう消え去ってしまった。
「……座布団はその隅のを使え。ジャケットも脱いでいいぞ」
「まだ寒い」
「……じゃぁせめて帽子は取れ、室内だ」
反駁しようとした次元を銭形が目で制すと、次元は不承不承といったていでゆっくり帽子を取った。きれいに後ろに撫でつけられた前髪が一筋額に落ちて影を作っていた。普段は帽子で隠されている目元を銭形はまじまじと見る。
「……あんま見んなって」
「穴が開くわけでもあるまい」
次元は顔を背け、小さく唸って髪をぐしゃぐしゃと乱した。



鍋の湯が、ことりと小さな音を立てた。
銭形は徳利を取り上げ、湯の中で軽くゆすって温まり具合を確かめる。掌に伝わるぬくもりに安堵しながら、ちゃぶ台の上の二つの猪口へと酒を注いだ。
白い湯気がふたりの間に立ちのぼり、くすんだ電灯の光を曇らせる。

「どうだ」
「悪くねぇな」
次元は唇を湿らせるように一口含み、喉の奥で転がしてから笑った。
「アンタが酌をしてくれた酒だと思えば、そりゃあ――上品で、風格がある」
「そりゃどうも」
大げさに芝居がかった誉め言葉を口にする次元にそっけなく返しながらも、銭形の口元には微かに皺が寄る。どこか疲れた笑みだった。

しばらくのあいだ、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。舐めるように酒を飲み、お猪口が空になればどちらからとなく注ぎ足される。続く沈黙は、居心地が悪いものではなかった。
外を吹く風が窓枠を鳴らし、ストーブの芯が小さく唸る。その音を聞きながら、銭形は盃の中の影を見つめた。そこに重なるように電灯の光が反射する。口元に持っていこうとすると、揺れて、ほどけて――捕まえられない。そんな思いとともに銭形は酒を飲み干した。
「ストーブ弱めていいか? 暑くなってきた。……とっつあんまだ飲んで大丈夫か? 随分とお疲れじゃねぇの」
「誰のせいだと思っとる」
次元がふいにネクタイを緩めながら言った。薄目で次元を見ながら銭形は言い返す。次元は煙草に火をつけ、一吸いすると天井を仰いで盛大に煙を吐いた。“誰”のせいか――二人の脳裏に浮かんだのは、きっと同じ男だった。だがそれを二人は口にすることはしなかった。
「カッカしねぇでアンタも一服すればいい」
ちゃぶ台の向こうで腰をずらし、にじり寄って煙草のパッケージを見せる。それが自分の胸ポケットから抜き取られたものだと知って銭形は顔をしかめた。
「お前って、手癖が悪い」
「そりゃどうも」
次元から差し出された煙草を受け取り、銭形はくゆらせながら天井を見た。二人分の煙がゆったりと揺蕩い、天井は霞んでいる。

「……お前も、あいつにゃ手を焼かされてるんだろう」
唐突な言葉に次元は銭形の顔を見た。酔っているのか、目元がやや紅い。
「何だよ、それ」
「とぼけるな」
その声に次元は苦笑した。

「まぁ、手を焼くってのとはちょっと違う。あいつは勝手に走って、勝手に笑ってるだけさ。俺はその背中を見てる。面白いことが好きだからな、それだけだ」
「……羨ましいもんだな」
「何がだ?」
「自由ってやつがよ。あいつはそれを絵に描いたように持っとる。お前も、そうだろう」
ジ、とストーブの芯が鳴った。十分に部屋を暖め切ったそれは、灯油が残り少なくなったのか明かりの勢いが弱まっていた。次元はダイヤルを「切」まで回し切ると、一拍置いて口を開く。
「アンタだって似たようなもんだろ」
「馬鹿言え。俺の足には鎖がついとる」
銭形は煙草を灰皿に押し付けるともう一度徳利を手に取った。湯気が再び上がり、盃になみなみと酒が注がれる。きゅとそれを呷って溜め息をついた銭形の表情はどこか苦しげだ。沈黙でやり過ごすには少しばかり重い空気に次元は複雑な気持ちになった。
「……やめちまえよ」
銭形が虚を突かれたようにこちらを見た。まずい、と思った次元は、新しく煙草を取り出しがてら腕時計を見た。日付はとうに変わっている。
窓の外、風に交じって遠く聞こえてくるのは電車の走行音か。長く続くのは貨物列車だからかもしれない。そんな判別ができるくらい自分は冷静だと次元は思ったが、口を突いたのはすでに出た軌道修正不可能な言葉を塗り重ねるだけのものだった。
「追っかけるのなんか、やめちまえよ」
銭形の目が一瞬見開かれ、何か考え込むような表情になる。
「……やめたら、俺が俺じゃなくなる」
銭形のつぶやきは次元への返事か、自分へ向けた言葉か。小さな声は、それでも揺らぎがなかった。次元は目を伏せて煙草に火をつける。
「だろうな。……それでこそ銭形警部ってもんだ」
呵々と笑いとともに煙を吐き出す次元を銭形は横目で見た。紫煙に覆われたその表情はうすらぼんやりとしてよく見えない。
「笑ってろ。お前ら全員まとめて俺がひっ捕らえてやる、から、な」
急に回ってきた酔いに銭形は眉間を揉む。返事の代わりに笑い声が返ってきて銭形はムッと口角を下げた。
「ほら、これで終いだ。飲んだら帰れよ」
徳利に残ったなけなしの酒を盃に一滴残らず注いで銭形は次元のほうに押しやった。と、銭形の手が次元の手にぶつかる。
「あっ」
「ッ、つ……!」
同時に声が上がる。煙草の先端が銭形の手にあたったのだ。慌てる二人の間にお猪口が転がった。
「大丈夫か? 見せてみろ」
「あ、ああ……、大したことない」
銭形の手の甲を次元の指先がそっとなぞった。かさついた指の感触と、短く切り揃えられた爪に――なぜか銭形の心臓がひときわ大きな音を立てた。知ってか知らずか、次元は銭形の手の上で指を遊ばせるのをやめない。
「ふ、やっぱアンタも銃使いだなぁ。こういうとこ、硬くなんだよな」
笑いながら顔を上げた次元の眼前に、覗き込んでいた銭形の顔があった。近い、というつぶやきはどちらのものであったか。銭形は咄嗟に身を引こうとしたが、次元が力を込めて手首を掴んだためにぎくりと体を強張らせた。視界を占める次元の顔に剣呑な笑みが広がる。
「だ、大丈夫だから。離せ」
「そうか」
空気が変わったことに戸惑う銭形の言葉に笑みを深めた次元は目線を合わせたまま煙草を灰皿に放り投げる。そのまま後頭部に回された手に強く引き寄せられた銭形は次元に覆いかぶさるように体勢を崩した。酔いがぐるりと頭を引っ掻き回す。手をついた先にある畳がこぼれた酒で温かく湿っていることだけが妙に生々しく感じた。
「な、」
何のつもりだという言葉は唇に当てられた次元の指によって封じられた。

「――明かりは、消してくれよ」



僅かに掠れたローバリトンが耳を打った、その記憶はある。だがその先は――定かではない。
翌朝目を覚ました銭形は布団の中で身を起こした。ズキズキと痛む頭を押さえながら部屋を見回すとちゃぶ台はきれいに片付けられていた。その上に自室の鍵がついたキーホルダーが行儀よく置かれている。二日酔いにふらつく足取りで台所に向かうと流しの横に洗われた熱燗セットが置かれていた。
「律儀な奴だ」
いや、自分がいた痕跡を消したかったのかもしれない。本来なら平行線の上を歩む相手なのだ、そう思うと胸の奥にわずかな寂しさが滲んだ。視線を彷徨わせた銭形はガスコンロの余白に置かれた灰皿に気づく。飲みかわした間の二人分の吸い殻は処分されていた。

――一本だけ、ポツンと残されていたのは自分の愛飲しているものではない洋モクだった。
銭形は苦笑し、それを指に挟んでしばらく見つめた。やがて、流しの三角コーナーに放り投げる。灰がわずかに散った。

グッジョブ送信フォーム \押してもらえると励みになります!/
最上部へ 最下部へ