まだ風も冷たい3月。
彼女はペットショップにいた。ずらりと並ぶショーケースの前でさまざまな種類の仔犬を眺めていた。彼女――登和子は迷っていた。我が子の誕生日に、彼がずっと欲しがっていた仔犬を飼おうと思ってペットショップに来てみたものの、昨今のペット事情に疎い登和子の予想以上に犬の種類は多かったのだ。
「困ったわね。犬ってこんなに種類が多いの?」
登和子は傍らにいる少年に言葉を投げかけた。その声にショーケースを覗き込むようにかがんでいた少年は顔を上げ背筋を伸ばす。そうしてみると少年は登和子を見降ろす格好になった。
「やっぱりどんな犬種がいいか聞いてからの方がいいかもしれません」
彼の返事に登和子は少し笑った。あの子だってどんな犬がいるのかわからないわよ、私の子だもの。ジョークめかして呟くとまたショーケースに視線を移した。そしてああでもないこうでもないと言いながら数十分かけて店内の犬を入念に眺め、彼女はある一匹を指差した。
「この子にするわ。源野、店員を呼んで頂戴」
それは区切られたショーケースの中に大切に入れられている犬ではなく、言葉は悪いが「投げ売り」的なポップが掲げられているケージの中にごちゃ混ぜに入れられていた中の一匹だった。源野と呼ばれた連れの少年は驚いて登和子に耳打ちした。
「これでいいんですか? 雑種……です、よ?」
登和子の指先にいた仔犬は鼻先が程よく湿り、利発そうな目をしている。しかし、雑種だとポップには書いてあった。登和子と同じく犬の種類などに詳しくない源野には柴犬の面影以外を見出すことはできなかったが「雑種」なのだった。
「あら、あなたは血統書付じゃなきゃ嫌?」
「そういうわけじゃありませんが……」
源野は口篭った。彼は勝手に血統書付の小型犬を買うのだと思い込んでいたのだった。桜木家の一人っ子に雑種犬? という思いもあった。そんな源野を見て登和子は微笑み、また仔犬に目を向けると真顔で呟いた。
「血に値段なんてつけるものじゃないわ」
その言葉に源野はぴくりと肩を震わせた。表情が強張る。
「す……すみません」
俯いたまま搾り出す声が怯えに震えているのに気付いて登和子は彼の方に手を置いた。
「ムキになっちゃったわね、驚かせてごめんなさい。さ、店員を呼んでこの子を連れて行きましょう? あきらが待ってるわ」
彼女の口調は柔らかで温かく、気落ちした源野の表情を明るくさせた。彼は頷いて店員を呼ぶために店の奥へ駆けていく。
会計が済み、店を出ると待機していたのは黒塗りの高級国産車。運転席から男が降りてきて後ろのドアを開ける。先に仔犬のケージを抱えた源野が乗り、その後ゆっくりと着物の裾を気にしながら登和子が乗り込んだ。
どれくらい走っただろう、車は鬱蒼とした森の中を進んでいく。昼間だというのに木々が春の日差しをさえぎり、あたりは陰鬱な空気に包まれていた。運転手は一言も発しない。登和子も源野も言葉少なだった。
しばらく走ると不意に視界が開け、古びてはいるが手入れの行き届いた日本家屋が見えてきた。来訪者全てを拒むかのような重圧を持った門の前で車を止めた運転手は車載電話をとると言葉短く到着を告げた。すぐに門が内側から開き、男が出てきて車の後ろのドアを開ける。登和子、源野の順に降りると車はそのまま走り去っていった。それを見送っているとパタパタと軽い足音をたてて玄関から小さな子供が走ってくる。
「おかえり! お母さん、犬は!?」
漆黒の髪の活発そうな目をした子供。登和子が世界で一番愛していると公言して憚らない我が子、あきら。速度を緩めないまま飛びついてくるあきらに登和子はよろめきながらも慈愛の目を向けた。そのまま髪を撫でながら源野に目配せをする。源野はケージをあきらの顔の位置まで降ろし、仔犬が見えるようにした。
「うわあぁ! 可愛い! やったー!」
「可愛がりなさいね、あきら」
「モチロン! 名前はポチにするっ」
「ポチ……直球ですね」
苦笑しながら呟く源野に構わずあきらは仔犬を抱えて家の奥へ駆け出した。
数日後。あきらは庭でポチと遊んでいた。茶褐色の仔犬とまだ5歳のあきらが春の日差しの中でじゃれている様子はもし傍観者がいたら笑みを漏らさずにはいられないだろうほのぼのとしたものだった。追いかけたり追いかけられたり、上になったり下になったり。
「イタッ」
突然あきらが声をあげた。ポチに触れていた手を慌てて引っ込める。
見ると指先に小さな玉のような血が滲んでいて、それに気付いたあきらの頬にさっと紅が差した。
「痛い」
じゃれているうちに興奮したポチがあきらの手を噛んだのだった。ポチは子供だから加減もわからないし自分が何をしたのかも解っていない。悪びれない表情であきらを見上げているポチを見てあきらは顔を歪めた。興奮冷めやらぬ短い息遣いで舌を出しているその顔が、幼い子供には笑っているように見えたのだ。
「なに笑ってんだよ! お前なんて死んじゃえ!」
言葉と一緒に小さな掌が振り下ろされた。きゅぅっと小さい声。ポチは尻尾を股の間に丸めて後退りした。
あきらが発したのは怒りからくる何気ない言葉。死ね、とか殺すとか。簡単に言ってしまえる子供だったし周りもそういう子供が多かった。小さい子供だからこそ、そういう言葉に抵抗はなかったし格好良くさえ思っている節があったのかもしれない。
だが怯えた顔をしたポチを見ているとあきらはバツが悪くなってきた。立ち上がって家の中に向かって叫ぶ。
「源野! 源野!!」
その声に縁側の雨戸が開いて真新しい学生服姿の源野が顔を出す。
「どうしたんですか?」
「ポチがっ……ポチが噛んだの」
涙目になりながらあきらは手を差し出した。驚いて源野は庭に下り、あきらの手をとってしげしげと眺める。指先に歯の形にポツポツと僅かに血が盛り上がっている。
「手荒い扱いをしたのでしょう、ポチは子供なんだから優しく扱わなきゃダメですよ」
苦笑しながら源野はあきらを諭した。あきらは頬を膨らませながらそっぽを向く。
「俺はやさしーもん。今日はもうポチとは遊んでやんねーからな!」
「はいはい、じゃぁ上がって手を洗ってください。消毒しますから」
源野はあきらの肩をぽんぽん叩いて家の中に上げる。そして振り返ってポチを見る。
なんだか解らないけれど初めて殴られたポチは小さくなって震えていた。それを抱き上げて源野は自分も家の中に入り、そっと雨戸を閉めた。