3

 浅い眠りを妨げたのはけたたましい女の悲鳴。続く喧騒。俺はギョッとして目を開けた。その目を射たのは毒々しく彩られた光の束。それを辿ってスクリーンを見て自分が映画館にいることを思い出しホッとする。変な格好で寝ていたせいで体が痛い。俺はゆっくり座り直し小さく伸びをした。

 隣に座っている女友達の美弥はチラッとこちらを見たけれど、一際激しくなる効果音に再びスクリーンに目を向けた。そこに繰り広げられる狂気の宴。
「わざわざ映画館に来てるのに寝ることないでしょ?」
華々しく飛び散る血糊に体を竦めながらも目は離さないまま美弥は囁いた。俺は黙って肩を竦めた。だんだん体の感覚が覚醒していく。その時、首筋にピリッと刺激を感じて俺はビクリとした。

 途端淀んだ空気に気付く。重く、じっとりと湿った空気。そして『視線』。――誰かがこっちを見ている?首をほぐす素振りで周囲を窺ったけれど、確認できる範囲は狭くて、少なくともその範囲では誰もがスクリーンに釘付けになっているようだった。
俺は顔をしかめて自分を落ち着かせるように息を吐く。ただの自意識過剰だ。映画を観に来ておいて観客の方を注視する人間なんていないだろう。自分にそう言い聞かせて顔を上げると、スクリーンには血みどろになってのた打ち回っている男が大写しになっていた。……何でこんな映画を選んだんだ美弥は。
見るともなしにスクリーンを眺めていた俺だが、次第に気分が悪くなってきた。誰も俺を見てはいない。気のせいだ、そう心の中で唱えても嫌な感覚は全然消えてくれなかった。じっとりした空気は熱を孕んで肌に纏わり付いてくる。

 エアコン入れろよ、くそっ。口の中で毒づいてみたものの、気分が晴れるわけもなかった。スクリーンの中では主役っぽい男女が殺人鬼に反撃を開始しているようだ。映画に集中すればいいかとも思ったがこの息苦しい空気に気づいてしまってはそれも出来そうになかった。
しかし……皆よく平気で居られるな。俺は感心交じりに溜息をついた。夏休みの映画館・話題沸騰の映画と満席御礼の条件を満たしたこの空間は空調のパワーが足りていないのかとても快適とはいえない空気に満ちている。入った時はそうでもなかったように思ったのだが。
外に出ようかと言う考えも頭をよぎったがすぐに打ち消した。自分達が居る席はスクリーンのド真ん前だったし今立ち上がれば他の観客の迷惑になることは考えなくても解った。俺は深く息を吸って吐き出すと目を閉じた。気持ちの悪い視線なんて気のせいだ、気にしなければいい。なるべく何も感じないように。

 スタッフロールが流れ、客席側の電気がついて立ち上がった美弥は動かない俺を覗き込んで驚いた顔になった。
「ちょっと! あきら大丈夫!? 顔真っ青だよ!」
「んー。ちょっと気分悪い。トイレ行きたいかも……」
本当はちょっとどころじゃなかった。無視を決め込んだはずの気味の悪い気配は目を閉じたところで消えるわけもなく、あろうことかゆっくりと近づいて来る気さえした。もっと悪いことに、肘掛に置こうとした腕が美弥の腕に触れた――その時気づいてしまったのだ、『重苦しく熱い空気』は自分だけに纏わり付いていると。彼女の腕はひんやりと冷たくサラサラとしていた。反射的に腕を引いた俺は嫌な汗が脇腹を伝うのを感じた。映画のラストは主人公の男女が森の廃屋に殺人鬼を追い込んで火を放ち、哀れ殺人鬼は廃屋ごと炎上して一応ハッピーエンド? のようだったが燃え尽きたのはこっちの方だよと思った。
だが客電が付き明るくなった途端に嫌な気配は消えたのでようやく体の緊張は解けた。俺はのろのろと立ち上がり、美弥にロビーで待つように言ってトイレに向かった。

 幸運なことにトイレは空いていた。個室に入り、便器に向かい合うと胃が収縮し口中に酸っぱいものがこみ上げてきて、たまらず俺はそれを解放した。出すものが殆ど無かったことは不幸中の幸いだ。ホラー映画観に来て女待たせてゲーゲーなんて格好悪すぎる。洗面台で軽く口を漱いでトイレを出るとロビーで待っているはずの美弥が立っていた。手に持ったペットボトルをズイッと俺に突きつける。
「殆ど寝てて全然観てなかったくせに、スプラッタで気分悪くなるなんて軟弱ー」
口を尖らせて見せるが、心配してくれているのはミネラルウォーターのボトルを見なくても解った。
「ごめんなー。これサンキュ。ちゃんとうがいしてきてもいい?」
ペットボトルを受け取って俺は言った。なんとなく便所の水を口にするのは抵抗があって(もちろん上水道と下水道が別なのは解ってるんだけど)さっきは本当に軽くしか口を清められなかったのだ。頷いた美弥を見て俺は急いでトイレに戻った。

 洗面台の前に立ち鏡を見る。酷い顔だがほんの少し血色は良くなっていた。溜息を吐きボトルのキャップを捻る。口をつけミネラルウォーターを流し込むと、不思議に甘く感じた。

――何だったんだろうなあれは。

 含んだ水を吐き出しながら俺は思った。実は奇妙な気配を感じるのはこれが初めてではない。霊感とまでは言わないが変な意味で感受性が豊かなのかもしれない。だけどこれほどまでに明確な悪意を執拗に向けてこられるのは初めてだった。
「まぁいいか。深く考えるのはやめよ」
俺は手の甲で口を拭って呟いた。こういうのは追求しないに限る。この映画館にもしばらくは近づかないでおこう。
映画館を出ると強い陽の光が目を射た。建物の中とのギャップで一瞬クラクラする。暑い。だが乾燥した空気は先ほどのものとは違って時折吹く生ぬるい風も不快ではなかった。
「あっつーい。どっかでご飯でもしようよ。大丈夫?」
美弥は自分のシャツの首元を人差し指で引っ張りながら言った。
「ん、飯って気分じゃないけどお茶くらいなら大丈夫だし付き合うよ」
ちらちら見え隠れする美弥の胸元に目を逸らしながら俺は答えた。いくら幼馴染だからって無防備すぎるんだよなこの人は。
「じゃぁ軽くね。前から行ってみたかったカフェがあるんだけどそこでもいい?」
「任せる」
俺の言葉に美弥は苦笑した。じゃぁ決まり、と呟いて美弥は俺の手を取った。それはとても自然な動作だったけど。
「こらこら」
思わず腕を引いてしまった。怪訝な顔で美弥は俺を見上げる。
「小中学生じゃないんだから友達なのに手を繋ぐとか駄目だって」
「えー? ……でも別に他のコとも手ェ繋いだりとか普通だよ?」
俺は肩を竦めた。それは女の友達の話だろ。そう言うと美弥は短く笑って答えた。
「あきらは女友達と何が違うの」
予想していた答えではあった。物心付く前から付き合ってた間で、お互い恋愛感情に発展するわけがないことは解ってるし確かにそれはそうなんだけど。
「それはそうなんだけどさー。それは他の人からは解らないし。美弥、彼氏できたって聞いたからさ。やっぱあんまりよくないと思うよ」
頭を掻きながら言うと美弥はギョッとした顔をした。
「え? あたしそれ、あきらに言ったっけ?」
「ううん、お前からは聞いてないけど。『悪事千里を走る』っていうじゃん」
ニヤニヤしながら答える俺を見て美弥は頬を膨らませた。
「何が『悪事』なのよー。馬鹿っ。べ、別に隠してたわけじゃないよ? なんていうかそう、えっと、言うタイミングが難しくって」
美弥の語調は段々弱弱しくなっていった。あ、まずいなと思って制止しようとしたが時既に遅く。
「なんか、あきらには言い辛くて……。ごめんね、隠すつもりはなかったんだけど」

 ちくんと心のどこかが痛んだ。美弥は知っているのだ。俺が『レンアイ』する資格がない人間だということを。けれどそれはできれば思い出したくないことだった。ふぅ、と小さく息をついてそれに纏わる思考を押し流す。
「何言ってんの。美弥もとうとう彼氏持ちかぁ。抜け駆け許さーんとか言うとでも思った? 俺は大人だから素直に祝福するっつの。よかったなー」
俺は努めて明るい口調で言うと美弥の肩を軽く叩いた。ありがとうと小声で答える美弥の照れくさそうな笑顔を眺めながら俺はパンツのポケットに手を突っ込んだ。
「そういうわけでもう今までみたいに手を繋いだりはナシな。誰も見てない所でなら思う存分手ェ繋いだり抱っこしたりしてくれていいけど」

馬鹿、と笑って美弥は俺の背中を小突いた。指輪の石が肩甲骨に痛かった。

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