VIVA!のんのん

グッタリとくたびれた男はドアノブを回した。キィ、と軋んだ音を立てて扉が開く。
久々に帰る自宅は寒々しい闇をもって男を出迎えた。
踵を使って靴を脱ぎながら手探りで電灯のスイッチを入れると蛍光灯の光がやや埃っぽくなった部屋を煌々と包んだ。


彼の大泥棒を追って世界各地を飛び回っている男はめったに自宅に帰ることがなく、それゆえ部屋には必要最低限の家具しか置いていない。生活感のほとんどない空間ではあるが、それでもここに帰ってくると男は何となくほっとするのであった。
すたすたと大股で部屋に入った男は自分のトレードマークであるコートを脱ぐとハンガーにかけ、丁寧に埃を払った。次いでスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。こちらは明日にでもクリーニングに出すつもりなのでぞんざいに座椅子の背に投げるようにかけた。ワイシャツのボタンを外しながら風呂場に向かい、湯船の上の蛇口をひねる。

――やはり風呂は日本式に限る。
蛇口から勢いよくほとばしる水音を聴きながら男は独り言ちた。
海外での彼の定宿はほとんどが最低ランクといっていい安宿ばかりで、風呂どころかシャワーですらまともに浴びれないこともままあった。
たとえきちんとバスが装備されていてもあの浅く広いバスタブでは温い湯につかることしかできなかった。
体格のいい彼にとって脚を伸ばせるのはありがたかったが、ただ冷めゆく湯の中で肩の寒さを感じながら入浴するのは虚しさしか覚えず結局この手の風呂ではシャワーを浴びるだけが得策だと悟った。
衣食住にはさほどこだわらない彼も、和食と熱い湯に肩までつかることに思いを馳せると日本が恋しくなるのであった。

湯船に水が程よくたまったのを見た男は風呂釜のスイッチをひねった。カチッという音の後、本当ならばボイラーに着火するボッという微かな音が聞こえるはずなのだがなぜかその音がしない。
「んん?」
男は首を傾げながら何度かスイッチをひねり直したが、期待した着火の音が耳に届くことはなかった。



インターホンを押すとほどなくしてドアが開き、頭にカーラーをまいたままの婦人が顔を出した。
「夜分すみません大家さん」
「あらこうちゃんアンタ帰ってたのかい」
申し訳なさそうな表情で立つ男の顔を見て婦人は目を丸くし部屋の奥へ振り返った。そのまま奥にいるであろう旦那へ声をかける。
「あんた! あんたぁ! こうちゃん帰ってきてるよ!」
「いえ、あの……風呂を沸かそうと思ったんですがなんだか壊れっちまってるみたいで」
部屋の奥からのそのそと現れた大家(旦那)はその言葉を聞くとハッとした顔になり頭を掻いた。
「あぁ……ちょうど今日からガス回りの工事入っちまってるんだわ、明後日まで風呂使えねぇんだよ悪ぃなこうちゃん」
「はぁ、そうですか」
間の悪い時に帰ってきてしまった、とは思ったものの、工事であれば仕方がない。
「それじゃ銭湯でも行ってきます」
「おぅそれがいいや、面倒かけて申し訳ないけどよろしくな」
「いえいえ」
ぺこりと頭を下げると男は部屋に戻り愛用の洗面器に適当に風呂支度を突っ込むと近所の銭湯へ出かけることにした(適当過ぎごめん


下足箱に雪駄を入れ木札をとり、大きく「男」と染め抜かれたのれんをくぐる。
番台に座るじいさんに金を払い、脱衣所の真ん中に鎮座するベンチに洗面器を置いた。
銭湯に来るのは久しぶりだが、この雰囲気は悪くない。自宅の風呂が沸かせないというのはハプニングだったが、何となくワクワクした気持ちで男はぐるりとあたりを見回した。
籐で編まれた籠を引き寄せ、脱いだ衣服を入れていく。一糸まとわぬ姿になり、籠をロッカーに入れ鍵をかけた時、背後でガタンと音がして男は振り返った。
番台の爺さんと目が合って男は眉間にしわを寄せた。じっと見つめる男に対し、じいさんは落ち着かない様子でそわそわと顔を逸らし目線を合わせようとしない。
数秒の緊迫した沈黙ののち男はゆっくりと口を開いた。

「――ルパン、だな」
びくりとじいさんの肩が揺れる。
「な、な、なんのことです?」
「しらばっくれるんじゃねぇ、貴様の下手な変装なぞお見通しなんだよ」
「へ、へぇ?」
男は腰にタオルを巻くと、知らぬ存ぜぬを貫こうとする老人に焦れたようにズカズカと番台に歩み寄った。
「いやにじろじろ見てくるから変だとは思ってたんだッ、お前がルパンじゃないならこの番台の下にいるじいさんは何者だ!?」
慌てて制止しようとする老人を押しのけて番台の下を覗き込むと、案の定銭湯の本当の老主人が猿轡を噛まされ後ろ手に縛られた状態で押し込まれていた。
「貴様、俺をおちょくるのは構わん……が、何の罪もないじいさんにまでこんな……!」
「やだなぁとっつあん、ちゃんと見てよっ。俺だって鬼じゃねぇんだ、どっちもゆるゆるだよっ?」
冷や汗を浮かべた情けない笑顔で言い訳するルパンを無視して銭形は番台の下から老人を助け起こす。なるほどルパンのいうとおり老人の言動を制限しているはずの猿轡もロープも、その気になれば自分で外せそうなくらいゆるい状態だった。
「よぅ幸の字、久しぶりだの」
老人は顎に猿轡代わりの手拭いをひっかけたままニコニコと銭形に話しかける。
「この若ぇのをあんまり怒ってやんねぇでおくれよ、なんだか面白そうだから一枚乗ってやったんだ」
「……なにをやっとんだあんたは……」
老人の無邪気な物言いに毒気を抜かれた風な銭形はルパンに向き直った。
「俺ぁ今から風呂に入るからとっとと消えちまえ」
ルパンはきょとんとした顔になる。
「え……いいの?」
「そりゃとっ捕まえてやりてぇが、俺は今丸腰なんでな」
その言葉に改めてルパンは銭形の姿を頭の先から足の先まで舐めるように見回してニヤニヤと相好を崩し、そんな彼を見て銭形は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「さっさとこの場から消えるか、――」
一瞬考え込むような顔をした銭形はハァ、とため息をつくとベンチに置いたままだった洗面器を手に取った。
「お前も風呂に入れ」
「え、いいのっ!?」
ぱぁぁっと明るい顔になるルパンに目もくれず銭形は浴場入口の引き戸に手をかけた。
「ここは銭湯だ、風呂入る以外にすることがあるか」

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