君の不幸が蜜の味

「独りの夜が、どうしても嫌な時があるんだ」
その言葉に男は目を丸くした。相手は自嘲気味に口角を上げる。
「笑いたきゃ笑えよ」

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路地裏に激しい怒号が響き、立ち止まった目の前で小さな酒場のドアが開くと中から男が叩き出されてきた。
放り出された男は力ない足取りでよろめくとそのまま積まれたゴミ袋の山の中に尻をつく。
――酔っ払いか。
貧困層と悪党しかいないこのドヤ街では珍しくもない光景だった。
そのまま通り過ぎるつもりでゴミの山から長く伸びた足をまたごうとした男はふと動きを止めてその足の持ち主の顔を覗き込む。
なんだか見覚えがある、その顔は――。




「あンれま、とっつあんでねーの」
男が発した言葉に相手はわずかに顔を上げた。
視界にぼんやりと映る赤いジャケットを認めると、緩慢な手つきで自分の懐に手を入れる。しばらくごそごそとやっていたが、自分が身に着けているのがいつものスーツやコートではないことを思い出すとはぁ、とため息をついた。
「みっともねーとこ見せちまったな。……見逃してやるからあっち行け」
酔いのせいか羞恥のせいか不明瞭な口ぶりで言う相手に男は肩をすくめた。
「とっつあんがみっともないのなんか見慣れてるよ」
差し出した手を無視する相手にやれやれという表情になった男は上半身を屈めると相手の脇に手を差し入れ強引に引き起こした。相手から漂うキツイ酒の匂いに苦笑する。
「だいぶ呑んだみたいネ、とっつあん」
いつもの彼からは想像もできないほどグニャグニャとやわらかい体からは返事がなかった。


「何だってあんなになるまで呑んだのよ」
「別に」
「つれねーなぁ」
とりあえず酔いを醒まさせようと男はドヤ街を出たところにある公園のベンチに相手を座らせた。
「アンタをここまで連れてくるのも骨だったんだぜ」
どれほど飲んだのかは知らないが、ちょっとでも手を離せばおぼつかない足取りで蛇行するように歩いた揚句にガードレールにぶつかり、そこに凭れて座り込んでしまうような相手をなだめすかしながら半ば背負うようにして歩くのは大変だった。
「そりゃ悪かったな」
男の苦労を知ってか知らずか相手の表情は変わらない。眠そうにトロンと半開きになっている目は男を見ようとはしなかった。それきり口をつぐんでしまった相手の横に男は腰を下ろす。そしてそのまま黙って通りを眺めていた。時間が時間なだけに人の往来はなく、時おり通り過ぎる車のライトに二人の影が伸び縮みする以外にはなんの動きもない静かな夜。


「……独りの夜が、どうしても嫌な時があるんだ」
重たい沈黙を破ったその言葉に男は目を丸くした。相手は自嘲気味に口角を上げる。
「笑いたきゃ笑えよ」
「どったの。セイリ?」
「んな頻繁なことじゃねえ」
男の軽口に憮然として目線を上げた相手は、真顔の男を見て意外そうな顔をした。
笑わねぇんだな、と小さな声で言った相手に、男は同じく小さく笑わないよ、とつぶやく。
「誰もいない部屋に帰ると、嫌でも俺は一人なんだと思い知らされてな」
そういうのに耐えられない時がある、と背中を丸めて言葉を重ねた相手の体が急に小さく感じて男はギュッと胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
「俺も似たようなもんだよ?」
男は何でもない、という口調で言った。相手が言う孤独感を理解できないでもない。
「お前にゃ次元や五右衛門がいるだろう。……峰不二子も」
そういうことじゃない、言いかけた男を遮るように相手は首を振り、自分の顎を胸元に埋めるように項垂れた。

「俺には何もない。――何も、ないんだ」
消え入りそうな相手の声に男は息を呑んだ。胸がざわざわして慌てて目をそらす。

「――結婚でもしたら? とっつあん」
唐突な男の言葉に相手は鼻で笑った。相手がいねぇよ、と吐き捨てるように言うと男はそうかなぁと頭を掻いた。
「アンタに言い寄る物好きな女もたまぁにいるじゃないの。あとお見合いとかさ、国際警察に出向するほどのエリートのとっつあんなんだからその気になれば選り取りみどりデショーが」
「……結婚、か」
「そうだよ、そしたらさ、家に帰るとキレイな奥さんが笑顔で迎えてくれて。『アナタ~、ご飯にする? お風呂にする? それともア・タ・シ?』なんっつって……」

そして、いつか子供が生まれて。
仕事が終わって家路につけば見えてくる暖かな光。
玄関を開けると駆けてくる小さな足音。
食卓に並ぶ、温かい料理と笑顔。眺める、穏やかな表情。

男と違い、警察官として表の世界で生きている相手にはそういう幸福な生活を選択することもできるのだ。
「なんで泣くんだ」
相手の言葉に男は自分の頬を伝うものが何なのかに気がつく。男は慌てて手の甲で頬を拭う。
「夜風が目に染みてサ」
男が言うと相手は笑いとも呆れともつかない息を吐いて立ち上がった。まだ酔いは醒めていないようで、体がぐらりと揺れる。男は慌てて腰を浮かしその体を支えた。

「大丈夫? まだ酒抜けてないんじゃ……」
言いかけた男は耳元で紡がれた相手の言葉に身を硬くした。
「――お前を逮捕するまでは、結婚などせんと決めているのだ」
強い意志を秘めた言葉。男は思わず背中に回した手に力を込める。

この人は、自分だけを追い、捕まえることに命を燃やして。
そのために身を切るような孤独にも耐え続けるのだろう。
「そんじゃ一生結婚できないネ、とっつあん」

絵にかいたような結婚生活や暖かな家庭が「幸福」だというのなら。
俺はあなたを幸せになんかしてやらない。
どす黒くも甘い考えに頭の芯を痺れさせながら、男はその感情が何であるのかも知らないまま相手を抱きすくめていた。

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