首尾は上々、のはずだった。ただの企業にしてはやたらとかたいセキュリティも、俺様の手にかかれば突破は赤子の手をひねるよりもたやすい。そうして潜り込んだビルの一角で粛々と進めていた仕事に影を落としたのは耳慣れた濁声だった。
「見つけたぞルパン!」
ちょ……とっつあん、来るのが早ぇよ。顔を上げるとコートを翻し駆け寄ってくる鬼警部の足音の他に、カツカツと床を叩く硬質な足音が耳についた。ビルの所有組織の構成員だ。
今見つかるのはまずい、と思わずとっつあんもろとも身を隠したのはいいが、ダクトだと思っていたそこは壁を四角くくりぬいた簡易物置のようなスペースだった。狭い。
――ったく、紛らわしい蓋つけるんじゃねぇよ。心の中でぼやきつつカバーに細かく入れられたスリットから外の様子をうかがう。部屋に入ってきた構成員は二人、会話を聞いた感じでは俺の存在はまだばれているわけではないようだ。さっさとどこかに行ってくれればいいのだが、と思っているとぐっと胸を押されて俺は前を向いた。
「おい……」
不機嫌そうな声を上げる相手の口を思わず掌で塞ぐ。薄暗がりの中でギラギラと光る相手の目を覗き込み、俺は唇の前に人差し指を立てて囁いた。
「今見つかるとちぃっと面倒なんだよネ。とっつあんだってここにゃ正規のルートで入ってきてないんだろ?」
目線だけ動かして外の構成員を指し示す。胸を押していた相手の手が緩んだ。
「あいつらをやり過ごしたら好きなようにしていいから。ちょぉ~っとだけ我慢してくれや」
相手は苛立った表情を隠そうともしなかったが、俺の体を押すのをやめ黙って手を下した。我知らず唇の端が上がる。
真っ直ぐすぎてともすれば愚直だなんて評されがちな銭形だが、なかなかどうして状況を的確に判断し、臨機応変かつ的確に行動できる男なのだ。目的の為なら宿敵であるはずの自分と手を組み共闘することもいとわない。――それすらも、自分を逮捕し法の裁きを下すことを見据えてのことだというのが皮肉だが――、俺はこの男のそういうところを好ましくさえ感じていた。俺が唯一宿敵だと認めた相手だ、こうでなくては面白くない。
俺はゆっくりと相手の口を覆っていた手を外した。笑っている俺を見て何を思ったのか、不機嫌そうな表情がますます険しくなる。俺はそれに構わず自分の置かれた状況を再確認することにした。気配を殺すことに留意しながら周囲を見回す。スリット越しに見える部屋には簡素な事務机と椅子がワンセット置いてあり、パソコンが一台設置されている。入ってきた構成員は二名、ベテラン然とした初老の男と幾分年若い男だった。モニターを覗き込みながら何やら会話を始める。
咄嗟に隠れたはいいものの、この狭さでは体勢を整え直すこともできない。おかげで俺たちは互いの脚の間に膝を入れ、背中を丸めた窮屈な格好で密着し息をひそめる羽目になったのだった。
しかもすぐに立ち去るだろうと読んでいた構成員は俺の思惑とは裏腹に部屋でくつろぎ始めた。思わず舌打ちしたが、内部観察の時間を与えられたと思うことにしてスリットの間から部屋の様子や構成員の会話を拾うことにした。体がほとんど動かせないので首を不自然に捻じ曲げる格好になったが、俺は常人より体が柔らかいのでさほど苦ではない。
どれくらいの時間が経ったのか。銭形がはぁ、とため息のような吐息を漏らしたので俺は顔を前に向けた。帽子のつばで相手の顔の上半分は隠れていたが、唇が弱弱しく開くのが見えた。
「……暑い」
声を出さなかったのか、声にならなかったのか。俄かに判断がつかなかったが唇の動きで彼がそうつぶやいたことは解った。解った途端、このスペース内の温度が大分上がっていることを知覚する。
大の男二人分の体温が狭い箱のような空間に溜まり、その上なぜかここは空調の温風が直撃するような場所に位置していたためにかなりの熱がこもっていた。思わず自分の襟元に指を差し入れ、ネクタイをわずかに緩める。触れた鎖骨のあたりが微かに汗ばんでいるのがわかった。スリーピースの上にコートまで羽織っている銭形は多分俺よりもっと苦しいはずだ。そう思い至り、俺は彼の表情を隠している帽子のつばを静かに持ち上げた。銭形は俺より深く膝を曲げているせいで、いつもならば見上げる形になる彼の顔を見下ろす形になる。妙に愉快な気分だ、と緩みかけた頬は隠れていた彼の目を見た瞬間に強張った。
どくん。
いきなり心臓が自分の存在を主張するかのように跳ね上がる。
暑さに参って弱弱しく伏せられているかと思っていた眼は、依然変わらぬ力強い目線で俺を射抜いていたのだ。俺が外を観察していた間、コイツはこんな目で自分を見ていたのか、と思うと一気に体中が熱くなる。
思えばこんな間近で銭形の顔を眺めたことはない。眺めたいと思ったこともない。けれどなぜか今は目を逸らす気にもなれず――俺は食い入るように宿敵の顔を見つめ続けた。そんな俺を見て相手は怪訝な顔をしたが、眉間のしわを深くするとぎろりと睨み返してきた。
急激に外の物音や気配が遠ざかる。これは俺の感覚の問題で、実際には構成員たちは部屋の中に存在したままなのはわかっているのだが、今の俺にはどうでもよかった。互いの呼吸音と自分の心臓の音だけが鼓膜を震わせる。頬にかかる銭形の息をくすぐったく感じながらも、俺は硬直したまま彼の顔を見つめていた。
日に焼けた肌は、意外に綺麗で滑らかだった。暑さに紅潮した頬はしっとりと汗ばんでいる。不意に開いた唇の間から、真っ白な歯と赤い舌がちらりと見えて俺はそのコントラストにギョッとした。
――なんだ!? 俺どうかしちゃってるヨ……! とっつあんにエロスを感じるなんてッ!!
慌てて視線を上げるとまた銭形の目を見ることになる。……あ、睫毛長ェんだな……って違うダロ俺ッ!
銭形の丸い瞳に映った俺の顔は相手に負けず劣らず紅潮していた。浅く、早くなりつつある呼吸もお互い様だった。違うのは相手のそれは暑さと息苦しさによるもので、自分のそれはまた違った原因によるものだということだった。
そのまま見詰め合ううち、相手の目に映る自分の顔がだんだん部分的になっていくことと、鼻先に感じる相手の体温が確かなものになって行ったことで、俺は自分の上体がじわじわと銭形の方に傾いて行ったことを知った。銭形は不愉快そうな表情になったが、この狭さで身動きが取れない。体が大きいというのも時には考えものである。あと数センチ近づけば互いの鼻の頭が触れる、そこまで来て俺は口を開いた。
「……あ、の」
言葉は続かなかった、そもそも何を言っていいのか解らない。奇跡が起こったのはその時だった。銭形の瞼がゆっくりと下がって行ったのだ。スリットから漏れる細い光が、銭形の目の下に睫毛の影を作ったのを見た瞬間に俺の理性は弾け飛んだ。
これは、キス待ち顔……ッ!!!!!
そんな言葉が脳裏をよぎると同時に俺は銭形の唇を貪っていた。彼の目が大きく見開かれ、グッタリしかけていた体に緊張が走ったがそんなことに構ってはいられない。俺は相手が身動きできないことをいいことにただひたすら本能のまま、自分の唇で、舌で、歯で、相手の唇を弄んだ。
柔らかく、熱い銭形の唇。震えているのは彼なのか俺の舌先なのか。解らなかったし、どっちでもよかった。
「――ッ、……ンんっ」
くぐもって漏れる声に怒気が滲んでいたが、俺は銭形の唇を思う存分味わいながらわずかに体の角度を変え、彼に気取られぬようゆっくりと挙げた手を彼の首筋に這わせると強引に引き寄せた。銭形の顎が上がり、驚きでなのか抗議しようと思ってなのか引き結ばれた唇が一瞬緩んだ。すかさず舌をこじ入れる。
「ん、ぅ……ッ」
銭形は顔を逸らそうとしたが俺はそれを許さなかった。両手で彼の顔をがっちりと挟み込み固定する。舌先に自分のものではない、熱く濡れた肉が触れ、俺の心臓はこれ以上ない激しいビートを刻んだ。自分が普段愛飲しているものより少し刺激の強い煙草の味を絡めとる。
――自慢するほどのことでもないが、俺は今まで関係を持ってきたすべての女たちからキスをはじめ性技に長けていると評価されてきた。
それもそのはず、俺にとって女とのキスやセックスはただのゲームにすぎなかったのだ。女をテクのみでメロメロにさせれば勝ち、出来なければ負けという単純なゲームだ。とるに足りない遊びの一つだったが、それでも俺は負けることを良しとしないので色事の最中にも冷静に相手の反応を読みそれに合わせて自分の動きを変えることを怠らなかった。肉体的な快楽に浸りながら堕ちていく女の顔を、俺の頭上からもう一人の自分が冷めた表情で眺めながら分析する、そんな感覚が好きだった。
なのに、今の俺ときたら。
まるで飼い主の顔を舐める大型犬のように、乳を求める赤ん坊のように、銭形の唇を舐め、舌を吸い取ろうと必死になっている。彼の反応を読む余裕なんてまるでなかった。銭形の吐息、密着した唇のわずかな隙間から漏れる水音、汗に濡れた頬、冷えた掌に伝わる体温、全てのものが俺の頭をじんじんと痺れさせた。
今の俺はただの獣だ。唇と言わずもっと深く貪りつくしたい。
目を見開いたまま硬直している銭形を俺は壁に押し付けて、その口内を蹂躙する。逃げ惑う銭形の舌を捕らえ、唾液をすくい取り、かき混ぜる。銭形の味。俺の味。くちくちと水音を立てながら緩やかに混じり合う。躊躇なくそれを喉の奥に流し込んだ俺を見て、銭形の表情は一瞬泣き出しそうに歪み、その眼はギュッと閉じられた。
ゆっくりと唇を離すと、二人の間に名残惜しげに銀糸が橋をかけ、すぐに切れた。同時に銭形がかすれ声混じりのため息をつく。
「っは、ぁ……」
唾液に濡れ光るその唇から洩れた吐息はこの上なく艶めいていて、途端二人を包む空気が淫靡なものになっていることに気付いた。温度も湿度も上がりねっとりといやらしさを孕んだ空気が、息をするたびに肺を満たしていく。
俺は改めて銭形の顔を見つめた。頬の赤さはその深みを増し、より広範囲に広がり耳元や首筋まで染め上げている。伝う汗は暑さのせいか、それとも。強く閉じられた目の、睫毛がふるふると震えているのが解って俺の胸はきゅんと締め付けられ、そこから下半身に向かって軽い電流が走ったような感覚に襲われた。