Lt3

母が亡くなったのは雪が降りしきる夜のことだった。
スリップしてハンドル操作を誤った車が買い物帰りの母に突っ込み――、知らせを受け病院に駆け付けた私が通されたのは遺体安置室だった。
「即死だったそうだよ……、痛みに苦しまずに済んだのは、」
先生から話を聞いて戻ってきた叔父の言葉を、私は肩に置かれた彼の手を乱暴に払って遮った。
あまりにも突然すぎる出来事は中学生になったばかりの私には受け入れがたく、耳目に入るすべてのことを拒否してただ茫然と震えるしかなかった。

仕事で外国に行っていた父が帰ってきたのは初七日もとうに過ぎた頃だった。
――なぜ今頃帰ってきたの、すぐに知らせは行ったはず、何を差し置いてもすぐに帰って来なきゃいけなかったんじゃないの?
多分それ以上の辛辣な言葉で私は父を責めたてたが、父は黙って仏間に置いた母の遺影と骨壺の前に座っていた。
私はそれからずっと、父と、父の仕事を憎み続けた。




「銭形刑事」
顔を上げるとここ数日毎日顔を突き合わせている若い男が立っていた。本庁から来ているこの男は、何が琴線に触れたのか初日から子犬のように自分にまとわりついてきて銭形は少々うんざりしていた。
「も、もうすぐクリスマスですね」
唐突な男の言葉に銭形は片眉を上げ訝しげに彼を見た。
「もし、まだ予定がなければ僕と食事でも――」
銭形は手にした書類を立てて机にトンと当てて揃えることで男の言葉を制止した。
「クリスマスは家族で過ごすと決めてるから」
「じゃ、じゃぁ、今夜この後飲みに行きませんか?」
めげない男である。その不屈な精神に半分感心しながら銭形は断る口実を探して一瞬考え込んだ。
「……今日はジムに行きたいからダメ。受けたいプログラムが今週は今日しかないの」
「断るにしたってもうちっと色っぽい理由はねぇのかよ」
署内全員が聞き耳を立てていたらしい。年かさの刑事が呆れた笑い交じりに茶々を入れるとどっと笑いが起こった。
「そういうことだから、ごめんね」
困った顔で所在なさげに立ち尽くす男に向かって銭形はニッと笑顔を見せた。それを見た男の表情がパッと明るくなる。
「っ、ハイ! ではまたの機会にお誘いします!」
……いやそういうことじゃないんだけど。銭形はあきれ返って走り去る男の背中を見送った。
「随分気に入られちまったようだな」
振り返るとさっき茶々を入れた年かさの刑事が立っていた。
「山さん」
「どうせ決まった男はいないんだろ? ちっとくらい相手してやったらいいじゃねぇか」
「今は仕事が恋人なので」
男の去ったほうを見たままきっぱりという銭形に刑事はため息をついた。
「そういうとこ、親父さんとそっくりだな」
「そうですか?」
振り返りきょとんとした顔でこちらを見つめる銭形に、刑事は優しい笑みをこぼした。
――警部殿も時々そんな顔を見せることがあった。懐かしく思いながらも、外見上の共通点を指摘されると機嫌を損ねる若い女刑事にはそれを告げず黙ってその肩を叩くにとどめておいた。



外に出ると冷たい風が体を打ち、私は慌ててコートの襟を掻き合わせた。
定時は過ぎたものの、こんな早い時間に上がれるのは久々だ。ジムに行って汗をかき、サウナに入って家に帰ったらビールでも飲もう。想像しただけでテンションが上がる予定を立てて私は足取りも軽くジムに向かって歩き出した。

……あれ、あの人……?

人ごみに紛れて、見覚えのある背中を見つけた私は立ち止まった。
「あのおじいちゃんさっきもすれ違ったなぁ」
頭にフィットする形のニット帽、グレーのコートに包まれたやや丸くなった背中。目的を持って行き来する人たちの中で、きょろきょろしながらゆっくりと歩くその老人を見て少し気にかかっていたのだった。
しばらく見ているとその老人は何やら手に持ったメモを見、また辺りを見回している。私は足早に彼に近づくと後ろから声をかけた。
「どうされたんですか?」
驚いて振り返った老人は、私の顔を見てほっとした顔になった。
「ここに行きたいんじゃが、この町に来るのは久々での、道に迷ってしまったんじゃ」
差し出されたメモを見る。書かれた住所はここから遠くない雑居ビルだった。案内しても、プログラムには間に合うかな? 腕時計を見る。
「じゃ、私と一緒に行きましょう」
「しかしお嬢さん……予定もあるんじゃろうに」
「いえ、これから帰るだけですから。それに私、困ってる人をほっとけないんですよね」
私は恐縮し遠慮する老人の腕をとると少々強引に歩き出した。



「この町もだいぶ様変わりしたのう」
道すがら、老人は言い訳めいたつぶやきを零すとぽつぽつと思い出話を聞かせてくれた。彼の声や口調は柔らかく上品で、心地よく聞きながら私は相槌を打った。
「ここじゃないですか?」
十数分ほど歩いて目当てのビルの前についた私はメモとビルの看板を見比べて確認した。
「おお、ここじゃここじゃ。お嬢さん、本当にありがとう――これは少ないがほんのお礼の気持ちじゃ」
言いながら懐に入れた老人の腕を私はぐっとつかんだ。驚いたように見上げる彼の目をじっと見つめながら。
「何が目的なの」
低いが鋭い声で問うと老人は戸惑った表情で私の手を振り払おうとした。
「な、何を言っておるんじゃ」
「あなた――」
私は彼の顔をただ見つめ続けていた。疑いが確信に変わるが、それを口にする勇気が出ない。たっぷりとした沈黙の後、私はやっとのことで口を開いた。
「ルパン、でしょ」
老人は目を丸くしたが、私が彼の腕をつかんだ手に力を込めるとにやりと口角を上げて笑った。
「なんだぁ、バレてたの」
すっと背筋が伸び、わずかに低かった目線が持ち上がる。私はその人を食ったような表情を睨み上げた。
「あなたからは泥棒のニオイがするもの」
「ひでぇなぁ、俺もうとっくに引退してるんだぜ?」
老人――ルパンは苦笑して肩をすくめた。



なんで私は父の宿敵だった男と並んでバーのカウンターに座っているんだろう。
こうなってからずいぶん時間が経っていたが私はずっと気まずい思いで両手の中のグラスを見つめていた。
店に入った当初はルパンも何やら話しかけて来ていたが、私が返事もしないのを見てあきらめたように口を噤んだ。
淡いピンク色の液体に浮かんだ氷が解けかけてくるん、と回転する。私はグラスを持ち上げるとその液体を飲み干して重い口を開いた。

「私、あなたが大嫌いでした」

家族よりも仕事を優先した父も。
私たちより優先されるその仕事も。
妻子より何より、父の頭の中を占める男のことが。
大嫌いでした。憎らしかった。

ルパンは黙って私の言葉に耳を傾けていた。謝罪の一つも口にしなかった。でも、それでよかった。何か言われたら泣いてしまいそうだったから。
「……それが今じゃ父と同じ仕事をしているんですからおかしいですよね」
あんなに憎んだ仕事をなぜ選んだのか。自分の気持ちを正確に分析することはまだできない。
だけど、父が見たものを、生涯をかけて追い続けたものを、自分も見たいと思った。自分もそれを見て、理解が出来れば父を許すことが出来ると思ったのかもしれない。
「君のお父さんは立派な人だったよ」
ぽつりとルパンはつぶやいて、私は店に入ってから初めて彼の顔を見た。変装を解いた彼は、昔写真で見た「ルパン」よりだいぶ年をとってはいたものの、その瞳には若々しい光が宿っている。
「あなたは父の恋人だったんですか」
ぶふぉっ。
ルパンは口に含んだアルコールを噴き出した。霧状になって舞うそれを私は顔を顰めて避ける。
「ヤダ汚い」
「ご、ごめ、ってかなんつうこと言いだすのよトシコちゃん」
慌てておしぼりでカウンターを拭うルパンを見て私は思わず笑った。幼い日にあんなに憎んだ男はそこにはいなかった。
「別に浮気を疑ってるわけじゃないのでご心配なく。父の性格上そんなこと絶対にできないのは解ってますから。ただ……」
私は目を伏せる。母がなくなってからずっと、私は父を避けてきた。
父の仕事が忙しいことを口実に叔父の家に身を寄せ、休日ごとに訪ねてくる父と顔を合わせようともしなかった。
母が亡くなったことで父も自分と同じように傷つき、哀しみに暮れたのだと気づいたころには――二人の間には埋めようのない溝が出来ていた。
「父がそんな孤独に耐えることが出来たのは――あなたのおかげなんじゃないかな、って」
「だけっどもさ、俺、オトコだよ?」
「私、そういうの気にしないんで」
あ……そう、とつぶやいて既にきれいになっているカウンターを拭き続けるルパンを私は盗み見た。
私が彼に接触するのはこれが初めてのことだった。けれど、最初に言葉を交わした時からなぜか懐かしいような感覚があった。私は数年前のことを思い出す。



それは父が体調を崩し、入退院を繰り返すようになった頃のことだった。
父の着替えや身の回りのものをもって病室を訪ねると、いつも真新しい花や果物などが父のベッドの傍らにあった。
最初は父の部下の人たちがお見舞いに来てくれたのだと思った――実際、見舞いに来た部下の人たちとは何度か顔を合わせて話をしたこともある。ただ、看護師の話によると毎日のように訪れて来ているという男の姿を見ることはついになかった。
謎の見舞客の正体が知りたくて、私は父の病室を訪ねる時間をランダムにしたり、帰ったと見せかけてまた引き返す、なんてことをやってはみたけれど。
『あら、ついさっきまでいらしたと思ったんですが』なんて看護師の言葉に悔しい思いもしたっけ。

その頃からルパンの予告状が警察に届くことは稀になり、父が亡くなった後はぷっつりとその消息が途絶えた。
しばらくして、新聞記者である叔父にルパンのことを聞いた時に彼は引退したそうだよ、と告げられ、あんなに憎んだ相手だったのに――不思議に寂しい気持ちに襲われた。

警察官になり、仕事に追われる今でも私はできる限り母と父の月命日にはお墓に参るようにしている。その時も、いつもそこには花が供えられていた。これも、かつての父の部下の人がお参りに来てくれているのかもしれない。だけど――。
私の直感と人並み外れた嗅覚が、ある人物を指し示していた。


あなたなんでしょ、と私は声に出さずにつぶやく。
微かに残る、何者かの気配と香水の香り。
頭の中にあったもやもやとした人物像が、ルパンを目の前にして現実として実を結ぶ。
「……俺とあの人は泥棒とそれを追う警部、それだけだったよ」
穏やかな顔で言うルパンを見て、私はそれ以上そのことについて何かを言うことはやめた。二人の間には確かに特別な絆が存在して、それを彼が今でも大切な宝物のように思っていることが解ったからだった。それを追及するほど野暮ではないつもりだ。

それから私とルパンは数少なめに言葉を交わしながら静かな時間を過ごした。
夜も更け、会計を済ませた彼と店を出て私はふと沸いてでた疑問を口にした。
「なぜ今頃私に接触してきたの?」
「ん?」
「あなたのことだから以前から私をどこかで見てたんでしょう? なぜ今になって接触する気になったの」
私の言葉にルパンは上機嫌な笑顔を見せた。
「イイ勘してるなぁ~、血は争えないねェ」
「怒るわよ」
酔った勢いで彼のコートの襟をつかむとルパンはへらへらと笑った後に耳元に口を寄せてきた。
「コレ、オフレコなんだけどもね、もーすぐ俺の息子がデビューすんの」
アルコールのニオイと共に吹き付けられた言葉を一瞬理解できずに私は彼の顔を見上げる。
「で、ライバル第一候補であるキミの偵察に来たってワケ」
「え? え!? えぇっ!?」
ゆっくりと頭に浸透していくその言葉の意味に思い当たって私は思わず口をパクパクさせた。ルパンは悪戯っぽい笑みで満足げに頷いて見せる。
「そ、ルパァ~ン四世」
独特な節回しで告げられた名に私は絶句した。思考が追い付かず、頭が真っ白になる。うそウソ嘘。その言葉だけがぐるぐるとまわる。

我に返った時にはもうかつての大泥棒の姿はなかった。
すっかり酔いの覚めた私はあたりを探し回ったが見つけられるわけもなく――。



ルパン四世を名乗る泥棒が世間を騒がしはじめ、私がそれを追って世界を飛び回ることになるのは数年先のお話。

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