君の名は

ジャケット越しに冷たい石の壁の感触。
男は振り向き、自分を追ってきた相手の顔を初めて真っ直ぐに見た。
ともに追いかけてきていたはずの警官たちの姿は見えず、ただ一人、たった数メートルの距離で立つ彼の、ベージュの中折れ帽の影から見える目が放つ強い視線はまっすぐに男に向けられている。そして、その伸ばした腕に持つコルトの銃口も。



こんなに追い詰められたことは今までになく、焦燥感とはまた別の興奮じみた感情に胸が躍っているのが解って男は口角を持ち上げる。

「アンタ、名前は?」
「知ってどうする、どうせすぐに死刑台送りになるのに」
一ミリでも動けば火花が皮膚の上で弾けそうなピリピリと張りつめた空気の中だというのに、男の表情や声は楽しげな色に縁どられていた。対する相手は冷ややかに男を見下ろしている。
「自慢じゃないけど、俺は今までの仕事でここまで追い詰められたことはねぇんだ。アンタは警官にしとくにゃ惜しいほどの男だよ」
背にした高い石塀の向こう側でわずかに空気が動く気配を感じとって男は笑みを深くした。小首を傾げて相手を見る。
「名前――。教えてくれても、バチは当たらないんじゃねえの?」
相手はかすかに片眉を上げた。
最近名が売れ始めたルパン三世という男については、その鮮やかな仕事ぶりのせいで警察内でもろくな資料がなく――おかげで彼は自分が追う泥棒の正体がどんなものかも知らなかったのたが、実際間近で目の当たりにしたこの男は想像していたどんなものより華奢で、あどけなささえ感じる年若い男だった。
小首を傾げるその所作はまるで小動物かはたまた媚を売る女のようで、相手の張りつめた心にほんの小さな油断を作った。
「銭形。……俺の名前は銭形だ。『美しい警部銭形』と呼んでくれて構わない」
「…………」

その時、長身を誇る銭形のゆうに二倍は超える高さの石塀の向こう側からロープが投げ入れられた。
「しまった……!」
慌てて引き金を引くも、男はそれを躱しロープをスルスルと伝って石塀の向こう側に姿を消してしまった。
「畜生!」
ひらりと夜空にはためいた深緑のジャケットの残像を追って相手は歯噛みする。
男は部下が待つ車の助手席に飛び乗るとすぐさま発車するように命じた。


「ご機嫌がよろしいようですね」
猛スピードで走る車の中、部下は横目で男の顔を盗み見る。
「ああ、面白いモンを見つけたのサ」
男は笑うと煙草に火をつける。

ゼニガタ。

男は口の中でつぶやくと愉快でたまらない、といった表情で煙を吐き出した。

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