「――あなたは、本当に美しい」
男は目をうっとりと細めてテーブルの向かいに座る相手を眺めた。
「は、そうですか」
賞賛の言葉にも硬い表情のまま、相手は武骨な手に握った銀の匙でスープをすくった。
実際、彼は美しいなどという言葉とは縁遠い人間だった。どちらかと言えば歯の浮くような言葉を彼に投げかけている――柔らかくウェーブががったプラチナブロンドの髪、整った顔立ち、サファイアブルーの瞳を持ち、スッキリとした痩身を真っ白なスーツで包んでいる――男の方がその言葉にはふさわしい。
「ICPOの銭形であります。ルパンの予告状が届いたと聞きまして」
「ああ、あなたが。まぁあなた方警察の出番はないと思いますよ。うちのセキュリティシステムは完璧なのでね」
ビシリと敬礼した相手を一瞥もせず男は言った。だが、ブラウンのコートをまとった相手はひるむことなくまっすぐに男を見据えたまま口を開く。
「あなたはルパンを甘く見ておいでる。奴はやると言ったら必ず――」
「いえ」
男はちらっと銭形に視線を送るとその言葉を遮った。
「あなたのご高名もかねがねお聞きしていますよ、銭形さん。ぜひそのお仕事ぶりを拝見したいと思っていました」
「それでは」
「ええ、こちらの警備陣もそちらに全面的に協力したいと思っています。――アラン・マクスウェルです、よろしく」
男はゆったりと微笑むと銭形に手を差し出した。
アラン・マクスウェルはマクスウェル財閥の若き総帥である。ホテル王だった父から二十歳そこそこで受け継いだ事業をその並々ならぬ才能で拡大していき、現在はホテル関連のみならず観光事業、航空・鉄道などの交通事業、外食産業やはてはIT関連等まで手広く展開し、そのすべてで華々しい成功を遂げていた。その才覚とたぐいまれなる美貌を持つ彼は財界のプリンスとして名を馳せている。
その彼が購入したという絵画のことはその値段のことも含めて一大ニュースとして取り扱われ、ルパンに予告状を送られるという状況になった。そうして銭形は初めてこの男に相対することになったのだが――。
おかしな男だ。
銭形は上目づかいで向かいに座る男を見た。と、悠然と微笑みながらこちらを見ている男と目が合ってあわてて目を伏せる。ずっと黙っているのも気が重い、と軽く咳ばらいをした後銭形は口を開いた。
「……マクスウェルさんは今度の市長選に出馬なさるそうですな」
男は一瞬目を丸くし、また微笑んだ。
「いえ。そんな噂があることは知っていますがね、私は政治には興味がなくて。政界にもたくさん友人がいますが、話を聞くだけでお腹いっぱいですよ」
銭形は苦虫を噛んだような表情になる。各界の上層部と濃密な交友関係を持つこの男の力は、彼が直接その世界で動かなくても強大なものなのだろう。事実この会食だってそうだった。この数日、何度も食事に誘われたのを銭形はすげなく断り続けていた。ルパンの襲来に備え対策を練る自分には一分一秒だって惜しかった――ホテルの最上階のレストランで優雅なディナーを楽しむより、安宿でカップラーメンを啜り、建物の見取り図を見ながらルパンたちの行動の予測を立てる、そんな時間の方が貴重だったのだ。
ところがそんなある日、ICPO局長から入電がありマクスウェル氏との会食に応じろとの命が下された。
『局長、今はそんな時間はありません!』
いつもの調子で抗った銭形だが、局長は銭形の主張をいつになく強く却下した。応じなければルパンの専任を解くとまで言われ、彼は渋々従うしかなかったのだった。マクスウェルが国際警察上層部に何か言ったに違いない。大した狸だ、いや、見た目から言うとキツネかな、などと銭形は思った。
「しかしね、銭形さん。私は幸運な男ですよ」
「は?」
「ルパンの予告状が届いた時は面倒なことになったと思いましたが、あなたの仕事をこんなに間近で見ることが出来るとは――、あなたは噂にたがわず有能でいらっしゃる。我々のセキュリティ部門の者に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ」
「はぁ……」
「何より真剣に仕事に従じているあなたは本当に凛々しく美しい。こういっては失礼ですが警察など無粋な人間の集まりだと思っていました。あなたを見ていて認識を改めましたよ」
銭形は困惑した表情になる。
世間が自分をどう評しているかくらい、彼はよく知っていた。長年ルパンを追い、取り逃がし続けているドジで無能な刑事――、多くの人間が銭形をこう思っているのだ。特にルパンの標的になるような金持ちの類は、彼と面と向かい憚りもせずそのようなことを口にした。だが銭形はそれら世間の評判をさほど気にしなかった。実際にルパンに狙われてから身をもって知ることになるのだ。ルパン三世という泥棒がどれほど非凡な男であるのか、そしてそれとほぼ対等に渡り合うことが出来る人間が世界にただ一人だということも。
逆にこのような賛辞を贈られることの方が銭形には不慣れで面映ゆく感じた。思い返せば初対面の時からマクスウェルは手放しで銭形をほめそやし、銭形を居心地悪くさせた。最初こそ嫌味を言っているのかと思ったが、警備のための事前調査や会議にも頻繁に顔を出すマクスウェルに勢い余って邪魔だと怒鳴りつけたこともあったのに変わらず接してくるところを見ると案外本気なのかもしれない。
「――銭形さんはワインはお嫌いですか」
不意に話題を変えられて銭形は怪訝な顔をした。
「先ほどから一口も飲まれていないので」
「ルパン襲撃に備えている間は二十四時間勤務時間だと考えていますのでアルコールはご遠慮しときます」
そっけない銭形の言葉にマクスウェルは唇の端をあげて笑った。
「なるほど、ストイックなまでに真面目でいらっしゃる。でも、一杯くらいならいいでしょう? ワインがお嫌いなら他の酒を用意させますし、少しくらい飲んでもお偉方に報告などしませんよ」
二人だけの秘密です、とウィンクしてみせるマクスウェルに銭形はため息をついた。裏返せば、自分の要求に応じなければまた上層部に圧力をかけるぞという脅しなのだ。生まれついての王者だけが持つ無邪気なまでの尊大さは自分の我儘が通ることで他の誰かが迷惑をこうむることなど考え付きもしない。誰かに似ているな、と思った銭形の脳裏に赤いジャケットが残像のようによぎった。
「それでは、一杯だけいただきます。いえ、これで」
ウェイターを呼びつけかけたマクスウェルを制すと銭形は手つかずだったアペリティフに口をつけた。
目を覚ました銭形の視界に入ったのは見慣れない天井だった。ここはどこだ? 頭がずきずきと痛み銭形は顔を顰めた。体が鉛のように重い。やっとの思いで頭をゆっくりとめぐらせると見覚えのある金髪が目に入った。
「お目覚めですか、銭形さん」
「マクスウェルさん――」
驚いて体を起こそうとした銭形はその時初めて自分が拘束されていることに気付く。
「なんですかこりゃぁ?」
状況を把握できずどんぐり眼を瞬く銭形をマクスウェルは目を細めて眺めた。
「あなたが私の話をまじめに取り合って下さらないのでこんな手段を取らざるを得なかったんですよ」
「話って……、」
銭形はしばし絶句した後、信じられない、という顔で口を開いた。
「警察を辞めてアンタのもとで働け、っていうアレか?」
思わずぞんざいになる銭形の口調も気にせずマクスウェルは満足げに頷いた。
「私のボディガード兼側近として、また、うちのセキュリティ部門総括としてあなたを迎え入れたいというお話です」
「その話なら断ったはずだ」
それに、まさか本気で言っているとは思っていなかった。銭形にとっては歯の浮くような賛辞の延長線にあるものだと思っていたのだ。
「なぜです? あなたにとっても悪い話ではないはずです」
マクスウェルは言うと傍らに置いたアタッシュケースの蓋を開いた。中にはぎっしりと札束が入っていて、それを見た銭形は思わず生唾を呑む。
「あなたの仕事を正当に評価できるのは警察ではなくこの私です。給料だって今貰っている額よりずっと多くを出しますよ」
札束の一つを取り出すとマクスウェルはゆっくりと銭形の眼前にそれを差し出した。
「――これは転職にさしあたってのとりあえずの支度金です」
顔をそむける銭形の頬を、優しく札束で撫でる。真新しい紙幣の匂いが鼻先を掠めて、銭形はギュッと目を瞑った。
マクスウェルは銭形が横たわるベッドの上に片膝を乗せ、頬を撫でる札束を首筋に滑らせた。
「ゆくゆくはビジネスパートナー以上の関係を築きたいのですよ、銭形さん」
マクスウェルの熱い吐息を間近に感じた銭形が目を開けるとそこには熱に浮かされたような男の顔があり、銭形は身をよじる。だが彼を拘束するロープは強固なまでに彼をベッドに縛り付け、わずかに身じろぎすることしか許してくれなかった。自分の胸元へ降りていく札束の動きを目で追っていた銭形は、自分が素肌を晒していることを知り仰天した。
「ワシの服はどこだ!?」
「邪魔なので脱がせましたよ。ああ、思った通り……いやそれ以上の美しい肌だ」
こともなげに言うマクスウェルに銭形は眩暈を感じた。どこの世界に雇用の話に服が邪魔だなどという人間がいるのか。
「悪ふざけも大概にしてくれませんかマクスウェルさん。ルパンが予告した日までもう間がない……こんなことをしている暇はないんです」
怒りに血管が切れそうになるのを堪えながら銭形は唸るように言った。マクスウェルは笑みを濃くすると無造作に札束をベッドの上に放り投げた。
「絵の一枚や二枚、ルパンにくれてやりますよ。それであなたが手に入るのなら安いもんだ」
言いながらマクスウェルが指先で鎖骨をなぞったために銭形の肌は粟立った。野暮ったい中年男の自分を美しいだのなんだのと賛美するこの男は単なる美意識のねじまがった人間だと思っていた――普通の美術品や宝飾品に飽きた金持ちには少なからずそういう人間が存在することを銭形は知っていた――が、コイツはただの変態だ!
声にならない悲鳴を上げて一層激しく身をよじる銭形を意にも介さずマクスウェルはその頤を掴んだ。
とっつあんから離れろ!
突如響いた第三者の声に二人の動きはぴたりと止まった。声のした方を見ると、ガラス張りの壁の向こうに赤いジャケットの男が立っているのが見えた。
「ルパン!」
思わず銭形が叫ぶとマクスウェルは彼に圧し掛かっていた体を起こした。
「おやおや、今夜はまだ予告のあった日ではないと思いますが?」
まだ本体制ではないとはいえ、厳重なセキュリティを掻い潜って姿を現したルパンにもマクスウェルは余裕の態度を崩さなかった。ルパンはいら立ちを隠しもせずワルサーを取出し、ガラス越しに構える。
「いいからとっつあんから離れろってんだよ!」
マクスウェルはその美しい顔をゆがめて笑う。
「お前には何もできやしないよ、ルパン。そこで指を咥えて私が銭形を手に入れるのを眺めているんだな」
その言葉が終わらないうちに銃声が響く。びりびりと振動が部屋の空気を震わせたが、ガラスには傷一つつかなかった。
「くそっ、防弾ガラスか……!」
いまいましげに叫ぶルパンを見て鼻で笑ったマクスウェルはゆっくりと銭形に向き直った。銭形の顎に添えた手に改めて力を入れ、自分の方に向かせる。
「……っ」
見かけによらずすごい力だった。逃れようと必死になるも虚しく、マクスウェルはその突き出した唇をじわじわと銭形のそれに近づけてくる。
「――挨拶以上のキスをしたら後悔することになるぞ!」
ルパンの声が遠くに聞こえた。意味が解らない。だいたい、挨拶でだってキスなんかごめんだ、と銭形は思った。意味が解らない、と思ったのはマクスウェルも同様のようだった。
「せいぜいそこで吠えてるがいい」
そう吐き捨てるとぐっと銭形を引き寄せた。ふわりとやわらかい熱が唇に触れ、銭形は目を白黒させる。しかし何も起こらなかった。
「ブラフだったようですね」
唇を触れ合わせたままマクスウェルは囁くと、拍子抜けして脱力した銭形の唇の間に舌を割り込ませた。その感触に銭形が鳥肌を立てた瞬間、バチンと衝撃が走り脳天に火花が散った。
「ギャァッ!!」
銭形自身も涙目になるほどの衝撃と痛みだったのだが、唇を合わせていたマクスウェルにはそれ以上のショックだったらしい。大きな悲鳴を上げ白目をむき、背中を弓なりにして仰け反るとその勢いも手伝って頭から床に落ちていった。
「な……なんだ?」
衝撃の余韻にまだぐらぐらする頭を振っていると、ガラス壁のロックを解除したルパンが部屋に入ってきた。意識を失い床に伸びているマクスウェルをゴミでも避けるかのような態度で跨ぎ、銭形の傍らに立つ。ニヤニヤと笑みを浮かべて銭形を見下ろしながら。
「おーおー、イイ眺めだねェ」
「馬鹿なこと言っとらんで縄をほどいてくれ」
不機嫌に睨み返す銭形にルパンは肩をすくめると小ぶりのナイフを取り出した。
「あ、その前にちょっと確認したいことがあるんだよネ、とっつあんちょっと口開けてくんない?」
「いやだ」
即答する銭形にルパンは苦笑した。
「あーそー、じゃぁいいヨ? 俺このまま帰っちまうけど……いいの? 突撃隊が助けに来るのと、マクスウェルが気がつくのどっちが早いでしょうかネェ~?」
「……」
銭形は渋々口を開けた。ルパンはそれを覗き込み、何かを調べるように指先で歯列をなぞった。
「よし、っと」
しばらくそうしていたルパンは満足したように銭形の口から指を抜くと、ナイフを持ち直して銭形の手首を縛っているロープを切り始めた。
「何だったんだ、今のは」
「ん~?」
「マクスウェルが舌を入れてきた瞬間、何か解らんがすごい衝撃をくらったぞ」
「なぁに、感じちゃったの?」
小刻みにナイフを動かしながら茶化すルパンに銭形はムッとした顔になる。
「お前が何か仕掛けたんだろうが」
完全に断ち切られたロープがシーツの上に落ち、銭形は痺れかけた手首をさする。ルパンは次いで脚を拘束する縄に手をかけながらにやりと笑った。
「俺ってば結構心配性なのよネ。とっつあんてばほら、自覚もなしにあっちこっちで人たらすじゃん? もちろんとっつあんが俺一筋なのは知ってるよ、けっどもさぁ、今回みたいに強引に迫られたらどーなるか解んないでショ。だからちょっと仕込ませてもらったんだよね、ルパン式貞操器具♪」
「ていそう……きぐ?」
聞き慣れない言葉に銭形は眉根を寄せた。ルパンは上機嫌で頷いた。
「とっつあんの歯にとりつけた器具が俺以外の舌や唾液を検知すると電気を流す仕組みなんだ」
鼻歌でも歌うかのようにさらっというルパンに銭形は呆然とした。あの衝撃も痛みも、比喩ではなく文字通り電流が走ったせいだったのだ。
「作るの結構大変だったんだぜ? そうそうテストするわけにもいかないしさ、んだから今回は特別テストも兼ねてキスくらいは許してやったってわけ」
「今すぐ外せっ!」
頭がグラグラするのはあの電流の衝撃のせいだけではない。怒りにわなわなと震えながら怒鳴る銭形にルパンは珍しく真剣な顔を向けた。
「ダーメ! これはさ、とっつあんを守るためでもあるンだよ? この器具がなかったらどうなってたか考えてみろよ」
銭形は言葉を詰まらせた。ルパンは銭形の脚のロープも完全に切り終えるとにっこり笑いながら銭形の体の下に手を差し入れた。
「あとね、こっちはもっと強力な電気が流れるようになってるから♪」
その言葉と同時にギュッと尻を握られた銭形は飛び上がった。『もっと強力な電気』だと?
「バッカ野郎、俺を殺す気か!!!!」
まさに鬼の形相になり怒鳴る銭形に臆することもなくルパンは相手の尻に当てた手を悪戯っぽく動かす。
「あっれェ、他のやつに使わせる予定でもあるの?」
「誰にもそんなことさせる予定なんざねェ!!!」
怒号と共にルパンの顔に銭形の足がめり込んだ。どさり、とルパンの体がマクスウェルの横に仲良く並ぶ。
「ったく、ロクでもねぇ」
ブツクサぼやきながら銭形はベッドのサイドボードに律儀に畳まれていた自分の服に腕を通した。数分もせずいつものかっちりとしたオールドスタイルに身を包んで内隠しから通信機を取り出す。
「こちら銭形。ルパンを確保した。――え? 予告の日じゃない? ンなこたどうでもいい、とにかく人員を回せ」
指示を出しつつ床に伸びているルパンに手錠をかけ、その顔を覗き込む。
「解除なり、外す方法なり、きっちり締め上げて吐かせてやるからなッ」