山積みになった書類に埋もれるようにしてその処理に没頭していた彼は、慌ただしく駆け込んでくる足音に顔を上げた。
視線の先に居たのは子飼いの部下の一人だった。わずかに息が上がっている様子を無言で眺めていると、目があった瞬間にビシッと音がしそうな勢いで姿勢を正す。目だけで促すとやや緊張した面持ちで口を開いた。
「警部、ルヴセンで次元大介らしき男を目撃したという情報が入りました」
「そうか」
銭形は手にしていた書類を置いて煙草を唇に挟んだ。軽い疲労に靄がかかったようになっていた意識が一気に覚醒していく。
「仲間と行動を共にしているかはまだ確認が取れていませんが――、一人分とは思えない量の食料を買い込んでいたという情報も入っています」
ふむ、と相槌と共に煙を吐き出した銭形はまだ長い煙草を灰皿の上に持って行ったが、そこには既に仕事がてら消費した吸殻が山盛りになっていたために再び咥えなおして立ち上がった。
「手の空いているいる人員は至急ルヴセンに回せ。会議の用意を」
銭形の言葉に部下は一礼し、入ってきた時と同じように足早に部屋を出ていく。それを見送った銭形は腰に手を添えるとぐっと背を反らした。長時間のデスクワークで凝り固まった背筋がバキバキと音を立てる。
「やはりこの国にいたか」
最後の捕り物帳から半年は経とうとしていた。寸でのところで取り逃がしたことはもちろん、それきり消息を絶ってしまったルパン一味に警察一同は歯噛みした。
必死の捜査も虚しく行方はようとして知れなかったのだが、銭形は長年の内に蓄積されたデータと独自の情報網、そして決して短いとは言えない賊との付き合いで培われた勘によって、地中海に面するこの小国に見当を付けたのであった。
ルヴセン、耳慣れない地名を呟いて頭の中に地図を浮かべる。彼らが何を狙っているのかはまだ確定できないが、そのあたりを拠点としているのならば位置関係で想定していた候補のいくつかはふるい落とすことも可能だ。
そこまで考えて銭形は唇の端を持ち上げた。自分の読みが正しければ、数日、遅くとも数週間のうちに警察機関に予告状が届くだろう。そして実際、彼の読みは正しかった。
数日後。
「この部屋を見張っている者が居る」
外出から戻ってきた五右エ門はまるで天気の話でもするかのような何気ない口調でソファに横になっている次元に告げた。
「……へぇ。何だろうな」
「殺気はなかった。警察の者かもしれん」
次元はその言葉に苦虫を噛み潰したような顔になる。その時リビングの奥のドアが開き、無精ひげの男がぼんやりとした表情でゆっくりと入ってきた。
「ルパン、解析は終わったのか」
「うん。俺様にかかればあんな暗号チョチョイのチョイよ」
軽い口調とは裏腹にルパンの顔は憔悴しきっていた。実際には三日間徹夜で缶詰めになっていたのだ。
「次元、腹減った。飯」
「おう、そろそろかと思って準備はできてる」
横柄に言うルパンに次元は文句を言うでもなく体を起こした。
「ふ~ん。サツがねぇ」
五右エ門の話を聞いたルパンは口いっぱいに肉を頬張りながら呟いた。
「今回の仕事は慎重に取り掛かりたいからかなり念入りに潜ったつもりだったけど、もう嗅ぎつけられたとは厄介だなァ」
スープと共に肉を胃に流し込み、重ねた言葉とは裏腹にその表情は明るい。それどころかイキイキと輝き始めた目を見た次元は嘆息した。
「お前なぁ……」
苦言を呈しかけた次元を尻目に、ルパンはすさまじいスピードで食事を終え勢いよく立ち上がる。ふぅ、と膨らんだ腹をひと撫ですると
「シャワー浴びる。そのあと俺、出かけてくっから」
返事を待つことなく軽い足取りでバスルームへ消えていった。
漏れ聞こえる水音と鼻歌に次元はため息を吐いた。涼しい顔で茶を啜っていた五右エ門がちらりとバスルームの方を見る。
「随分と機嫌がよいようだな」
「そりゃ三日三晩の缶詰から解放されたんだからな……。でもよ、とっつあんが既に俺らに感づいてるってのにあの気楽さは何だよ」
「ルパンのことだ、何か手立ては考えているのであろう」
「だといいけどな」
そんな会話が交わされていることも露知らず、ルパンはさっぱりとした顔でシャワーを終えると洗面所の鏡に向かった。自分の顎に手を添え、角度を少しずつ変えながら髭の剃り残しがないかを入念にチェックしている。きれいに剃れていることを確認すると化粧水を手に取り、これまた丁寧にパッティングする。それが終わると今度は髪のブロー。時間をかけてヘアスタイルを決め、鏡に向かって笑顔を作ってみたりキメ顔をしてみて仕上がりを確認する。
洗面所のドアを開け放したままそれらすべてのことが行われたので、一部始終を目撃することになった二人は呆れた顔を見合わせた。
「あれでなかなかのナルシストなのだな、ルパンは」
「言ってやるなよ」
五右エ門の言葉に次元は苦笑する。そんな空気を薄々感じながらも意に介さずに自分の部屋に戻って行ったルパンは、再びリビングに戻ってきた時はパリッとした新しいジャケットに身を包んでいた。
「んじゃ、遅くても朝には帰ってくるから、留守中よろしく」
どこかうきうきとしたその様子に、二人は微妙な表情になったが返事をすることはなく黙って出ていくルパンを見送った。
「――やけに浮ついていたが、まさか遊びに出たのではあるまいな」
「どうだかな……まぁ俺はあいつの言うことに従うだけだ」
あきらめたように言う次元の顔を五右エ門は盗み見る。その視線に気づいた次元はきまりが悪い表情になり、帽子を深く被り直した。
「今回だけ、な」
本格的にルパン対策本部が建てられ俄かに活気づいた警察機関の一室で、銭形自身もバタバタと仕事に追われていた。本心を言えば一刻も早く現場へ向かいたいのだが、指揮を執る身としては現場に出る前に片付かなければならない事務仕事があったのだ。
――煩わしい手続きはさっさと済ませてルヴセンへ。
その一心で銭形は恐るべきスピードで書類を捌いていた。その時、デスクに据え付けられている電話がけたたましい音を立てた。
「オイ、電話!」
一分一秒でも惜しい銭形は書類を繰る手を止めずに怒鳴った。だが部下は部下でそれぞれの仕事や準備に奔走し、部屋を出払っていたために応える者はいなかった。仕方なく受話器を取り、素早く首と肩の間に挟むとまた書類に手を戻す。
「銭形」
苛立ちを滲ませながら告げたが、受話器から伝わる声に一瞬手が止まる。相手の声は一言二言何かを告げると返事を待つことなく通話が切れた。銭形は呆気にとられたように受話器を眺めていたが、しばし考え込むような素振りをした後、スーツの内ポケットから手帳を取り出して何かを書きつけた。
きっかり定時までに仕事を終わらせた銭形は警察機関をあとにした。デスクワークは嫌いだが、やってできないことはない。ニ~三日中には部下を連れてルヴセンへ発つことが出来るだろう。体力気力を保つためにも、それまでは自分にも部下にもダラダラと仕事をさせることを良しとしなかった。
そして――。
銭形は手帳に並ぶ文字列を眺める。記憶していたものとそれに相違がないことを確認し、手帳をしまうと銭形は歩き出した。ずんずんと大きな歩幅で通りを闊歩するその足取りは心なしか軽い。
赤信号で立ち止まった彼は、ふとショウウィンドウに映った自分の姿に我に返った。夕闇に浸食され始めた街に煌々と光るショウウィンドウは磨き上げられた鏡のようで、そこに映し出された彼の顔は自分でも驚くくらいだらしなく脂下がっていたのだ。
そういえば、と真顔になった銭形は思い返していた。すれ違う人々が奇異なものでも見るような視線を自分に投げかけていたような気もする。とはいえ、その体格の良さや厳つい風貌、警察官特有の鋭い雰囲気にその類の視線を向けられたり不自然なほど避けられたりすることは稀ではなかったので気にも留めていなかった。
銭形はショウウィンドウを鏡代わりにしながら真顔を保とうと努めたが、胸の奥から湧き上がる感情がそれを許さず自然と目尻が下がり、口元が緩む。信号待ちの暇に飽かせて真顔になったり笑顔になったりを繰り返していたが、視線をずらした先に店内の女店員が怪訝な顔でこちらを見ているのを捕らえて赤面すると慌ててショウウィンドウに背を向けた。
信号が青に変わるのをじりじりと待ち、横断歩道を渡りきると、はやる心に急かされるように銭形は駆けだした。
ドアの前で軽く息を整えると、銭形はゆっくりとドアノブを回す。
静かに部屋に入っていくと、奥から聞きなれた――、この数か月渇望した声がした。
「よぉ、久しぶり」
鼓膜を打つその声に銭形の心臓はどきんと高鳴り、かぁっと頬が熱くなる。ごくりと喉を鳴らした彼は、後ろ手にドアを閉めると部屋の奥に向かって踏み出した。部屋全体を見渡せるところまで進むと、突然抱きすくめられて銭形は目を白黒させた。慌てて腕を突っ張るとすんなり離れた男のモンキー面が目に入る。
「会いたかったよぉ、とっつあん」
「馬鹿野郎、てめぇで勝手に行方をくらましといて何言ってやがる」
えへへ、と笑うその姿に爆発しそうな鼓動を感じながらも、銭形の口をつくのは悪態ばかりだ。ルパンはかまわず銭形の肩に額をこすりつけ、次いでコートの襟元に鼻先を埋めた。
「あぁ……懐かしくも馨しい、銭形警部の匂い」
「ふざけるな」
その芝居がかった言い方とくすぐったさに銭形は小さく震え、ルパンの肩を小突いた。ルパンは再び顔を上げ、銭形の目をじっと覗き込む。
「でもとっつあんも、急いでここに来てくれたンでしょ?」
腕時計を指さして笑うルパンに、銭形はぐっと喉を詰まらせた。答えない銭形の鼻先に、ルパンは自分の鼻先が触れるほど顔を近づけ。
「俺はすんごぉ~く会いたかったよ。……とっつあんも、そうだった?」
とろけそうなほど甘い声音で囁くものだから、銭形は耳まで真っ赤になった。懐に入れた指先が手錠の縁を滑る。焦って掴み直そうとした手はコートの上から押さえつけられた。
「そんな野暮なモノ、出すんじゃありません」
子供を諭すようなルパンの言葉に思わず睨み返せば、ニコニコと眉尻を下げて笑っているのが目に入る。この表情には覚えがある。それはさきほど見たショウウィンドウに映った自分の顔で、銭形は苦々しい思いでため息をつき、懐に入れた手を下した。