嘘(仮題)

オマワリなんて、間抜け野郎ばかりだと思っていた。

口蓋を自分のものでない舌でなぞられて背筋に甘い痺れが駆け上る。震える息をこぼしながら俺は縋り付く素振りで奴のジャケットのポケットに入ったマイクロフィルムを手持ちのダミーと差し替えた。
「…は、」
堪えきれないといった風情でわずかに顔を傾け様子を窺う。いつものしかつめらしさでぎゅっと寄せられた濃い眉の下の目はしかし、緩く伏せられたままでこちらの盗人しぐさに気付いた気配はなかった。離れかけた唇を軽く啄むと慌てて追って来ようとする仕草に込み上げた笑いを噛み殺す。
掠め盗ったマイクロフィルムを袖の隠しポケットに押しやりながら奴の頬に触れる。初めて触れるその肌は思った通り熱く、存外と滑らかで、うっすらと汗ばんでいた。
「――アンタって意外とキス巧いのな」
細心の注意を払って言葉を吐く。主導権を渡さないためほんの少しの挑発的態度と、この気短な刑事の機嫌を損ねないための申し訳程度の媚。この配分がどのように作用するかは相手の気質にもよるので難しいところだ。ゆっくりと瞼を上げた銭形の表情に戸惑いを認めた俺はほくそ笑んだ。読み通り、この愚直な刑事はこの手の色事には疎いらしい。
「いったい何の真似だ」
唸りにも似たその言葉に俺はとうとう笑いをこぼさずにはいられなかった。
「さんざ貪っといて今さらその言い草はないだろうが、警部殿」
頬に置いていた指先をゆっくりと首筋に滑らせる。ごくりと動く喉仏を撫で、襟のボタンを一つ外してやる。念のため視線は奴の顔から外さなかったが、銭形は眉間のしわを深くしただけで、ほかにさしたる反応は見せなかった。
とっくに目的は達成していた。あとは適当にタイミングを見計らって逃げるだけでよかった。頭では解っていた。それができなかったのは、今この男を占めているのが自分の一挙一動のみだ、と気づいてしまったからだった。

俺は銭形という男のことをよく知らない。解っているのは相棒であるルパン三世をまるでスッポンのごとくしつこく追い回している刑事、ってことくらいだ。仕事の時だってこいつの意識の大半はルパンに注がれていて、それ故に俺とこいつの間にはそれなりの距離があった。物理的にも、認識的にも。それでよかった、はずなのに。初めて至近距離で接したこの男があまりに無防備に見えて、俺はもっと踏み込みたいという好奇心に抗えなかった。
「まさか、これで終わり……なんてこたないよなぁ?」
気安く言いながら銭形のジャケットの裾を弾き上げベルトに爪の先をひっかける。

オマワリなんて、間抜け野郎ばかりだと思っていた。

油断と期待、そして一瞬だけ逸れてしまった意識。それぞれはごく小さなもので、どれか一つでも欠けていればこんなことにはならなかったはずだ。しかし時は既に遅く、俺の手首は銭形の手でがっちりと拘束されてしまっていた。
「今さら何だよ、焦らす気か?」
動揺を隠せたのかどうかは解らなかった。銭形の表情を再確認する暇もなく体を反転させられ今まで尻を乗せていたデスクに捩じ伏せられたからだ。後ろ手にされた腕がきしんで俺は小さく舌打ちした。
「ずいぶんと荒っぽいプレイがお好みのようで」
「何を企んでる」
軽口にまぶした苛立ちも意に介する様子のない銭形のセリフに俺はため息をついた。ここでこの質問が出るということは、俺がマイクロフィルムをスッたことは気づかれていないようだ。
「何も企んじゃいねぇよ」
「アイツも来てるんだろう、ここに」
アイツって誰だ、なんて聞かなくても解りきっていたので俺は黙っていた。銭形は俺を抑えつけたまましゃべり続ける。
「お前が俺を足止めしてその隙に次のヤマに関する情報でも盗み出そうってところだろうが残念だったな、この署にゃお前らが欲しがるようなもんはないぞ」
ルパンの存在に思い至って少し饒舌になる銭形の様子になぜかみぞおちのあたりが重くなった気がした。気のせいだ、と自分に言い聞かせて首を振る。
「……俺がアンタを足止め? 色仕掛けでか?」
「む」
「ハニートラップやるんなら俺なんかより適任が居るのを知ってるだろう」
「峰不二子か」
銭形の面白くなさそうな声音が可笑しくて俺は口角を上げた。
「ご名答。即思い当たるってことはなんだ、不二子相手ならアンタもその気になってたってことか?」
「誰がなるか、あんな性悪女」
俺の問いに銭形はフンと鼻を鳴らして吐き捨てた。
「は、同感だ」
誰かと手っ取り早く仲良くなりたきゃ共通の敵を作れ、って昔聞いたことがある。俺は素直に同意を示した。その『性悪女』に何度も惑わされ痛い目に遭わされたことがあるのを知ってるってことはこの際黙っておいてやろう。
「だけどルパン主体の仕事なら、そーいう役回りになってただろうよ。でも現状はそうじゃない、なぜか解るか?」
返事はなかったが俺は構わず続けた。
「ここに来てんのは俺一人だし、『シゴト』も関係ないからだ」
一瞬銭形の手の力が弱まって、再び力が込められる。
「お前は一人で、ここに来た。仕事も関係ない? ――いったい何が目的だ」
俺の言葉を噛み砕くように繰り返す銭形の口調からは先ほどまでの警戒心が消えているように思えた。
「ただの興味だよ」
「興味?」
「あのルパンがあれほどまでに執着する人間ってのはどれほどのもんだろうってな」
俺は必死で頭をフル回転させながら言葉を紡いだ。正直なところ俺はこの男を侮っていた。口づけ程度で翻弄した気になって、引き際を間違えた。その結果が無機質な机に強制的に頬擦りさせられているこのざまだ。この形勢を逆転、とまではいかなくてもマイクロフィルムをすり替えたことを気取られないまま逃げ出す隙くらいは作らなければならない。
「それに――俺を見てただろう、アンタ」
「気づいてたのか」
手首の上で銭形の指がピクリと動いた。
「いや、気づいたのはルパンだ」
アイツと組んで何度目かの仕事の後、祝杯を挙げている最中にルパンがポロっとこぼしたのだった。
――銭形、なんかお前のことすげぇ見てんのな。
まったく気づいていなかった俺はへぇ、と曖昧にうなずくことしかできなかった気がする。そんな俺を横目で見たルパンは、もしかしてソッチの気があったりしてな、とつぶやいて悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。その時はいつものくだらない冗談の一つだと思って流したんだが。
「そう言われたら気になるじゃねぇか、なぁ?」
「だから抱かれに行ってやろう、ってのか? ずいぶんぶっ飛んだ理屈だな」
「こそこそ嗅ぎ回ったり探りを入れるのにおしゃべりしたりっつーのが苦手でね」
「お前…この仕事向いてないんじゃないか?」
銭形のあきれたような声に俺は口をへの字に曲げた。
「だってこれは仕事じゃねぇもん」
どこか幼さを感じさせる拗ねた口調で言った次元の背中を銭形は黙って見下ろした。俯いた次元の後ろ髪は横に流れて、わずかに見える首筋は普段隠れているせいか思ったよりも白く見える。自分はこの男のことを何も知らないのだ、と改めて実感して銭形は小さくため息をついた。

不意に黙り込んでしまった銭形を怪訝に思った俺は顔を上げようとして、次の瞬間襟の後ろに差し込まれた銭形の指に悲鳴を上げた。
「はっ!? なにすんだよッ」
銭形の指の乾いた感触で、自分が自覚以上に汗をかいていたことに初めて気づく。逃れようと身をよじると再び強く腕を抑え込まれて俺は鋭く息を飲んだ。
「いや……お前らのことだ、発信機や盗聴器を仕込んでるんじゃないかと思ってな」
感情を読み取れない口調で言いつつ首元をまさぐり続ける銭形の指にぞくりと込み上げるものがなんだか解らないまま俺は声を上げた。
「ンなもんねぇよっ、言っただろーがっ、これは俺の独断でやってることだって」
「――そうか」
俺の言葉に納得したのか、気が済んだのかはわからないが銭形はぶっきらぼうに言い捨てて俺の襟から指を抜く。爪の先が首筋をかすめ、俺の体は意思に反してぶるっと震えた。
「アンタの疑り深さは承知してたがちぃとしつこすぎるぜ」
「悪いな、職業病だ」
再び体の奥に灯り始めた熱を誤魔化すように言うと申し訳なさを微塵も含まない言葉とともに背中に重みがかかってきた。掴まれている手首が軋んで歯を食いしばる。
「確かに俺は、お前を見ていた」
覆いかぶさってきた銭形の唇が耳に触れるか触れないかのところで動く。
「ずっと不思議だったからだ――、お前が現れるまでルパンは『相棒』なんてものは持たなかったからな。もちろんその仕事に合わせて組む相手はこれまでにもいた。だがどんなに有能な人間でもたいてい使い捨てにしてきた、なぜだかわかるか?」
「知らねぇな」
あいつのこととなると途端に饒舌になるんだな、とどこか遠くで思って俺は吐き捨てた。自分でも驚くほど刺々しい口調だったにもかかわらず、声もなく笑いをこぼす銭形に苛立ちが募る。
「あいつは常に自分が物語の主人公じゃないと気が済まないからだ。相方が有能であればあるほど仕事はしやすくなるだろうが主役の座を奪われる可能性が高いからな」
「あー……そうかも、な」
とりとめもなく続くくだらないおしゃべりにげんなりして俺は投げやりに相槌を打った。身じろぎすると大の男二人分の重みを受けた机がギシリと揺れた。
「お前がヤツの隣に現れた時も同じだと思っていた、お前は経歴も実力も十二分に『物語の主役』が務まる男だ。ヤツがずっとお前を傍に置いておく理由はなんだ?」
銭形の言葉に俺は信じられない気持ちで目を見開いた。銭形の自分に対する認識はせいぜいがルパンのおまけ、くらいのもんだと思っていたからだ。評価されていたことにかすかな喜びを感じたが、応えようと開きかけた口に銭形の指が割り込んできて俺は顔をしかめた。
「よほど忠実な番犬なんだろうなと思ってはいたが――愛玩も兼ねていたとはな」
笑いを含んだ銭形の言葉に俺の頭はかっと熱くなったが、舌を指で抑え込まれていて反論はかなわなかった。俺の怒りをよそに銭形の指は無遠慮に口内をかき回し、その刺激で沸いた唾液が唇の端から顎髭に向かって伝う感触がした。
「――試してみるか? ヤツとどっちが『イイ』か」
「!!」
揶揄うような言葉とともに尻にぐりっと硬いものが押し当てられて俺の体は強張った。反射的に銭形の指に思いっきり歯を立ててしまい口の中に薄く鉄の匂いが広がる。
「……ヤツ以外には狂犬ってわけか」
ゆっくり指を引いた銭形を俺は首を精一杯曲げて睨み上げた。表情は帽子の陰になっていてよく見えない。
「ルパンとは、寝てねえよ」
唸るように言う俺に銭形は返事をしなかった。ただ緩慢な動作で自分の指についた俺の歯形を眺め、ちろりと舌を出してそこを舐めた。その紅さを見た俺は不覚にもさっきのキスを思い出してしまう。
「そうか。――で、試すのか? どっちg」
「だぁからっ、アイツとはそんなんじゃねぇ……っ」
あまりの話の通じなさに声を荒げた俺だったが、銭形の手が勢いよく俺の体を反転させたので最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。真正面から改めてみる銭形の目はぎらぎらとまっすぐに俺を見ていて。俺は目を逸らすこともできずただごくりと喉を鳴らすしかできなかった。

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