うちのタマ知りませんか

尾行されている、と確信して男は厳しい表情になった。
先ほどから不審な気配が自分の後ろにあるのは気付いていたが、何分人通りの少なくない往来のことであり単に行き先が同じ人間であることも十分考えられた。だが男の持つ第六巻が違和感を訴えたため、男は何食わぬ顔をしたまま後ろに細心の注意を払い歩き続けていたのだった。

「ふむ」
交差点で立ち止まり信号が変わるのを待ちながら男は考え込んだ。
刑事という職業柄、よからぬ輩に後をつけられるという経験は幾度かあった。だがしかし、それはたいてい逆恨みによるお礼参りのチンピラ崩れなどの小物ばかりで、「尾行」なんて言うのもおこがましい稚拙なものばかりだった。
だが今のやつは――。さりげなく背後を窺うが、そこに広がるのは男に関心を払うこともなく行き交う人々が繰り広げる何の変哲もない「日常の風景」だった。普通の人間ならば尾行されているなんて気のせいだったかと自分に苦笑することだろう。
男は交差点に向き直り、ソフト帽を目深にかぶり直すとつばの影で唇の端を持ち上げて笑った。
――尾行のプロだか知らねぇが、なかなか相手のしがいがありそうなやつだ。
信号が青に変わった瞬間男はバネに弾かれたように駆け出した。さすがに周囲の人間が驚いた声を上げたが、それもあっという間に遠ざかる。

この街の地図は頭にたたき込まれている。実際、「刑事は足で稼ぐ」を地で行っていた男の中には、地図以上の地の利の情報が蓄積されていた。男は一見やみくもに走っているようできっちりと自分の計画通りに移動をしていた。
しばらく走り、男はビルの隙間という方がしっくりくるような路地に身を隠し往来を窺った。向こうからこちらは死角になっている。

本当に「プロ」ならば、気づかれたと悟り追ってくることはないだろう。それならそれで相手が何者なのかを調査する時間が出来るわけだし、もし追ってきたとすればここでひっ捕まえて正体を暴いてやる、と男は考えていた。
気配を消してしばらく見ていると、自分が走ってきた方向から一人の少年がやってきた。
「――あいつか」
何かを探すようにきょろきょろしながら歩いてくる少年を認めて銭形は気の抜けた声を漏らした。とにかく、正面から出て言って逃げられても困る。銭形は体を斜めに向けてビルの隙間から裏に回り、尾行してきていた少年の背後から近づくことにした。



「おい」
後ろから声をかけると、少年の肩が面白いほどに跳ね上がった。ゆっくり振り返り、銭形の顔を視界に入れた瞳が真ん丸に見開かれる。
「あ……あれぇ? おじさん、偶然……」
ひきつった笑みを浮かべる少年に銭形は顔を顰めて見せた。
「偶然じゃねぇダロ、なんだって俺の後をついてくるんだ」
「気づいてた、の」
少年のゆるくウェーブがかかった髪が揺れる。
「あのさ、さっき助けてもらったデショ、だから、その、お礼が言いたくって」
視線を逸らし、しどろもどろに言葉を紡ぐ少年を銭形は見下ろす。確かにほんの小一時間前、繁華街でチンピラ予備軍のような男たちに絡まれていた少年だった。当然見過ごすことはできず銭形はそこに割って入り、この街では名のしれた刑事である彼に恐れをなした小悪党は蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったわけであるが――。
「礼ならあん時言ってもらっただろうが。それに……」
拭いきれない違和感の原因を探るように銭形は少年の顔を凝視した。
「お前を助けたわけじゃねぇ」
「え?」
銭形の言葉に少年は顔を上げた。今まさに成長中です、という危ういバランスだが整ったその顔はあどけない子供そのものの表情で、銭形の眉間のしわはますます深くなった。
「自覚してないのか」
声に出さずつぶやく。事件の捜査のために聞き込みをして歩いていた彼が、少年に絡んでいるチンピラを見かけたのは全く偶然だった。刑事という職に就いているということ以前に生まれ持った正義感で体が動いたのも事実だったが、何よりも銭形を突き動かしたのがただのカツアゲ現場にはそぐわないほどの不穏な気配だった。



あまりにも狂気めいた、残酷で冷たい――、中堅どころの刑事として数々の修羅場を潜ってきた彼も滅多に経験することがない気配、それは殺気だった。それが、ナイフや鉄パイプを手にした男たちではなく、その中心にいる少年から発されたものだと気づいて銭形の皮膚はわずかに粟立った。さっさとやめさせないと人死にが出ちまう――、その一心で銭形は男たちの輪に割って入ったのだった。



だが今、きょとんとした表情で彼を見上げてくる少年にはそんな不穏な気配など欠片もない。
「町の治安を守るのが俺の仕事だからな。さ、ガキはさっさと家に帰れ、もう暗くなるぞ」
「……おじさん、警察官なの?」
少年は小首を傾げて銭形を見た。銭形は小さく舌打ちする。普段子どもに接するようなことがない彼は、うまいあしらい方を知らない。子供特有の無邪気なしつこさがどうにも彼の居心地を悪くさせた。
「ああそうだ。早く家へ帰んな。いつまでもこんなところをうろついてると逮捕するぞ」
渋面を作って見せた銭形に少年が告げた言葉は彼に軽い衝撃を与えた。
「俺、帰るところないんだよねェ」
「はァッ!?」
まさか浮浪児か、と改めて銭形は少年を見る。衣服は薄汚れているものの、上等な布で仕立てられているもので、何より少年自身の表情や物腰が育ちの良さを物語っていた。
「だからお願いっ、おじさんちに泊めてっ」
「家出してきたのか」
「帰るところがないだけだヨ」
「だから家出だろ」
「今夜寝るところがないだけ」
「家に帰りゃいいだろうが」
「ベッドで寝かせてなんてゼイタク言わないよ、床で寝るからサ、だからおじさんちに泊めて」
「俺んちにベッドなんかねぇッ!」
のらりくらりと躱す少年にしびれを切らした銭形は声を荒げた。
「どーしても家に帰らねぇってんなら寝床を用意してやらんこともないぞ」
パッと明るい表情になった少年に銭形はにやりと笑って見せた。
「今夜は特別に留置所に泊めてやるッ」
その言葉が終わるか終らないかのうちに少年に掴みかかったが、少年はその手をするりと抜けるとそのまま脱兎のごとく駆け出した。
確かに肩を掴んだと思ったのに。呆気にとられる銭形に、少年は軽やかな足取りで走りながら叫んだ。
「そんなところで寝るなんて勘弁だね! じゃぁまったね、おじさ~ん!」
あっという間に遠ざかって行く、ウサギを連想させる白い背中を呆然と見送った銭形はため息をついた。


仕事を終え、自宅に戻った男は鍵穴に鍵を差し込んだところでふぅ、とため息をついて振り返った。
既に日は落ち、あたりは薄闇に包まれている。
アパートの前の街灯は電球が切れかけているのか、ジジ…という耳障りな音とともに点滅を繰り返していた。
その明滅に合わせて、電柱の後ろからはみだした小さなシルエットが浮かんでは消えるのを確認して男は苦い表情でゆっくり口を開く。
「おい」
影が大きく揺れ、さっと電柱の後ろに隠れる。もちろん、返事はない。
「……。おー、い」
恐がらせたかと、できるだけ柔らかい声音で呼びかけてみたものの、返事はおろか隠れてしまった影が動く様子もなかった。
男は焦れたように舌打ちし、回しかけていた鍵を引き抜くと踵を返した。

「家に帰れって言ったろ」
電柱の前に立って言うと同時に、点滅を繰り返していた電灯が弱弱しいながらも継続した明かりをもたらす。
その黄色っぽい光の下で、おずおずと顔を出したのは案の定昼間の少年だった。
「帰るところ、ないんだもん」
困ったような笑顔で見上げてくる少年を見て銭形は再びため息をついた。
「一晩だけだぞ」
銭形がそう言うと、あっさりと受け入れられたのが意外だったのか少年は一瞬きょとんとしたが次の瞬間には屈託のない笑顔になり、こくこくと頷いた。

――とんでもねぇのに懐かれちまった……

銭形の内なるボヤキを知る由もない少年はうきうきとした足取りで彼の後をついてきた。
自室の前に立ち、ドアを開けると腕の下から少年がするりと顔を出し、物珍しそうにキョロキョロと室内を眺めまわす。
猫みてぇだな、と苦笑する銭形を尻目に、少年は靴も脱がずにずかずかと部屋に上がっていく。
「おいおいっ、靴くらい脱いで上がれよッ」
慌てて肩を掴むと少年は目を丸くして銭形を見た。
「……え、もうここから部屋だったりするの? 俺てっきりこの奥に玄関スペースがあるのかと」
「――くそボンボンが」
少年の言葉を受けて思わず銭形が唸ると、少年は神妙な顔になり慌てて靴を脱いだ。



卓袱台の上に買って来た弁当の袋を置いた銭形はそこでふと気づいたように少年を振り返る。

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